そして、統合失調症サバイバーとなった現在、
あるきっかけで再開した「瞑想ごっこ」と私的に呼ぶ行為によって、
様々な出来事を体験することとなりました。
これらの体験の中、スピリチュアルやオカルトを信じない俺は、
自分の主張を否定されるかのような経験と認識を経て、
今までいつかのスレッドを立て、その内容を書き込ませていただきました。
1つ目のスレッドは病気の恐ろしさを伝えることを目的としました。
2つ目のスレッドでは、自分が最初に体験した出来事に対する意見交換を目的としました。
このスレッドでは、最初の体験のみならず、それ以降にも体験した内容を含め、
それらを考察しながら、例えエキセントリックだとしても、「自分の考察」を恐れずに述べ、
意見交換を行うことを目的としてしています。
これらは統合失調症による妄想である可能性を否定しませんが、
ここでは、それをあえて想定せずに考察した内容を、書き込んでいく場としたいと考えています。
最初のスレッド
俺が統合失調症を発症した時の話をする
hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1397826641/
2つ目のスレッド
俺が統合失調症を発症した時の話するの続き(おーぷん2chではありません)
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12320/1398856837/
統合失調症とは「心の病気」という認識が根強くありますが、
実際には、脳機能の病気です。
現在は脳内の神経伝達物質である「ドーパミン」と「セロトニン」の分泌異常を原因とした仮説が有力で、
これらの神経伝達物質の受容体の働きを阻害する薬である
「抗精神病薬」の薬物療法によって治療されます。
この病気を罹患すると、主に妄想と幻覚が出現し、
これらを「陽性症状」と呼びますが、これは副次的なものです。
実際には、認知(事実を受け取る能力)が障害される「認知機能障害」と、
精神活動が著しく低下する「陰性症状」を主体とする脳機能の病気です。
脳機能が障害されても、年単位という時間はかかりますが、
薬物治療や自助努力などによって、回復するケースは多くあります。
難治性の場合があることを認めますが、70%の罹患者は社会復帰し通常の生活を送れるまで回復します。
病気であったため、不思議な体験をした可能性を否定する要素はありません。
これらの体験の詳細は>>1で示した2つのスレッドを見ていただくとして、
このスレッドでは初期体験の概略と、それ以降の「エキセントリック」な体験を書いていきたいと思います。
今日は眠いので、この辺で・・・
統合失調症にはナイアシンが効くようで
できれば食品の形で採取するのがいいようです。
我が家は菜食主義で肉はあまり食べないので
海苔とか唐辛子、大豆製品、ピーナツ、インスタントコーヒーなどなどですね。
なんだかんだで、自然と必要な食品を体が欲しがっているというのはあると感じています。
御指南ありがとうございます。
ナイアシン(ニコチン酸アミド)は、俺も飲んでいた時期がありました。
アドレノクロム原因仮説に基づく療法で、陽性症状にのみ効果があると報告がありますが、
俺の場合は、既に陽性症状が消失していたため、効果は体感できませんでした。
このスレは「あえて、統合失調症の妄想だと想定しない」ことが趣旨なので、
以降は、統合失調症を罹患した感想などの記述を主体としたレスポンスは避けたいと思います。
このスレでは、体験内容に関する感想と考察を書いていきます。
2012年2月頃に行っていた「瞑想ごっこ」と呼ばれる行為によって、
非科学的な(そして、エキセントリックな)体験へと引きずり込まれることになりました。
会社の会議室や休憩室、あるいは天気の良い寒空の下での公園。
この行為に取り組む際、場所は特に選びませんでしたが、
特に公園のベンチに座っている時が、最も密に集中することができたことを覚えています。
これらの体験の後、俺は「自分がどこまでも広がり続ける」という、
何とも「アイタタタ」な体験をして、その先で謎の声を聞きました。
この際、今思い出しても気分が悪くなるのですが、そこで強烈な苦痛を味わった後、
統合失調症の陽性症状(幻覚・妄想など、非常に激しい認知機能障害)が出現することになります。
この「強烈な苦痛を味わった」時、ここで体感した事柄は、
あまりにもエキセントリックなものでした。
その体験内容を書くことは今まで避けてきたのですが、
このスレッドでは、都合の良い「統合失調症とあえて想定しない」という趣旨があるため、
書いていきたいと思います。
しかし、俺の考え方の底流には、
「自分は統合失調症であったから、それらの体験をした」
という思いは常駐するものです。
これらの体験を「妄想と幻覚」と捉えるか、あるいは「神秘体験」と捉えるかは、
このスレを見ている方々の判断にお任せします。
俺は「妄想と幻覚」と捉えていますが、
このスレでは、あえてこの主張をジャンプします。
そこを満たしていた「12の構造」と呼ぶ空間のようなものが、
自分の中へと押し寄せてくるような感覚は、強烈なものでした。
それらと融合するように、あるいは結びつくようにして1つになった俺は、
自分の体や心までもが粒子へと分解し、
この世のものとは思えない激痛を感じることになりました。
その前段として、宇宙の外側へ向かい、再び「個」へと戻ってくる体験の中で、
様々なことが「理解」ではなく「分かる」感覚がありました。
「理解」していないが「分かる」という感覚は、
俺も統合失調症を罹患する前には、良く体験していました。
例えるなら、アイデアの元となるカタチが思い浮かび、
そこに物事を当てはめて考えていくと、アイデアが浮かんでくる感覚、
このように表現できるかも知れません。
そこで様々な事柄を「分かっていく」中で、
すべてが分かったと確信にも似た感情を得ることになりました。
この「分かる」という言葉は、
「知る」と言い換えることができるかも知れません。
「俺たちは影を見ているに過ぎない」
これは、古代ギリシアのプラトンが考えた「洞窟の比喩」と似ています。
洞窟の中で影だけ見て生きている人間にとって、この世界は「影だけ」であって、
俺たちが見ているような、色鮮やかな世界は想像することはできません。
この体験によって、俺たちが生きている世界で見ているもの、
あるいは、感じているもの、事実と認識しているもの、
これらは、一体何なのか、なぜこのようになっているのか。
言うなれば、「有る」と認知している事柄は一体何なのか、
それらの疑問が、一斉に氷解するように思えました。
別にこれらは数学的な意味合いはなく、あくまでも「利便上」です。
前レスまで書いた体験の中で感じた内容を説明するためには、
以下の5つの考え方を解き明かす必要があります。
1.すべての存在の「始点」は1つである
2.無数の物体がある宇宙は、実体のあるホログラムのようなもの
3.この世界は複数の世界が重なり合っている非常に曖昧なもの
4.「曖昧」という状態は、複雑化された現象によって「そう見えているだけ」
5.すべては同一であり、しかしすべては同一ではない
俺たちは空間の中で、時間に流されて生きていると感じることがあります。
3次元の中で、そこに時間という1次元を加えた世界。
この世界は4次元だと表現される場合があると聞いたことがあります。
「時間」とは何か、まずはこの問題に取り組む必要があります。
なぜなら、上記の「5つの考え方」を解き明かす上で、
最も重要で、最も基本的なものであるためです。
縦・横・高さの3つの軸で表現されるものが3次元であり、
4次元とは、数学では正多胞体(超立方体)のように一般的な次元へ拡張するものですが、
俺の感じた限りでは、一つ上の次元は不確定なものでした。
「時間」と呼ばれる軸が別個に存在するのではなく、
主観となる次元から見た場合、上にある次元が時間として見え、
それらは不確定であるため、拡張される軸(語弊がありますが、軸の進むべき方向のようなイメージ)を曖昧にします。
けれども、事象が確定し「時間」の座標軸が安定すると、
それは「過去」と呼ばれるものとして、存在確率が安定する、
このような感覚が、俺の「知った」内容でした。
時間とは、別に難しいものではなく、非常に単純なものだと俺は認識しています。
既に、この時点でエキセントリックさ加減をヒシヒシと感じていただいていると思いますが、
このような内容が、頭の中へ流れ込んで来るのですから、
それが、いかに心地よいものであり、
同時に、いかに辛い体験であったことを感じていただけると嬉しいです。
複数に見える場合があると考えています。
存在確率が不確定である場合、それらは「有る」という状態ではありません。
しかし、実際に実体が複数に分裂しているわけではなく、
「情報」が、実体が同時に複数の場所へ出現しているように見せているに過ぎません。
不確定な状態にある物体は、俺たちの知るような姿ではなく、
「本来の物体の姿をしている」と言えるかも知れません。
しかし、「本来の物体の姿」とは、何ともエキセントリックな言葉です。
俺たちが知る「個体」や「粒子」とは、時間の確定によって3次元以上に出現した姿であって、
本当の姿は、「波のようなもの」として感じられました。
しかし、物体が持つ波とは、広がる波紋ではありません。
例えるものがないので説明が難しいのですが、
一面にゴムの膜を張り、その下から輪ゴムのように、形状が可変な物を押し当て、
その後、その盛り上がった部分を除き、ゴムの膜を取り除いて残った部分、
それがウニョウニョと蠢くようなイメージです。
ゴムのように伸び縮みしますが、それらは本質的には波であるため、
形はゴムのようでも実際には波、という想像しづらい状態を持ちます。
この波と波は相互に干渉し合い、波と波が重なり合うと増幅します。
この波が一際大きく増幅した部分が存在確率の候補になります。
2次元から見ると、XY(縦横)軸は確定していますが、Z(高さ)軸は不確定です。
XYZ軸に対応する、縦・横・高さは入れ替えても構いません。
例えば、縦・高さが確定していて、横が不確定と仮定しても、考え方には違いはありません。
3次元でも同様のことが言えます。
2次元から見た場合、XY軸は確定していますが、Z軸は不確定のため、
それを体感として認識することはできません。
2次元から見たZ軸は、不確定なもの、つまりは「時間」として感知されるでしょう。
そして、このZ軸が確定すると、3次元となります。
俺たちはXYZ軸の次なる軸方向、仮に「A軸」としますが、
これを時間として感知している、と「知る」体験をしました。
2次元から見た「時間」が確定すると、3次元になります。
そして、3次元から見た「時間」が確定すると、4次元になるのですが、
俺たちには4次元は体感できません。
化学反応、物質の形状変化などによって、
あるいは時計や地球の自転や公転でしか「時間」を推測する術はなく、
この世界に存在する限り「時が刻む真実の音」を聞くことはできないように感じられます。
けれども、俺たちは実際には「時間」を目の当たりにしています。
今も、あなたは時間を間接的に目撃していると言えます。
それは特段に珍しい現象ではなく、特別な条件が揃う必要はありません。
ごく当たり前の出来事の中に、時間は有るものです。
それは、俺たち自身や、目の前にあるディスプレイやキーボードという状態、
これらはすべて「時間」、「A軸」が加えられた3次元、
言い換えるなら「3次元」において時間の存在確率が確定した「過去」とも表現できるものです。
3つについて考察します。
■2.無数の物体がある宇宙は、実体のあるホログラムのようなもの
俺たちが感じているもの、見ているもの、観測しているすべてのものは、
実際には「情報」とも言うべきものなのかも知れません。
これは、「実体とは存在しない」と言うような主張や考え方ではなく、
「俺たちは影を見ているに過ぎない」という意味です。
実体とは「波」であり、3次元とは「2次元の波の確定」と「4次元の軸の確定」、
これら2つの要素が重なり合った結果だとしたら、
俺たちが見ているものは「確定情報」に過ぎません。
触れることも感じることもできますが、すべては情報に過ぎず、
それは実体が落とした影とも表現できるもの、と言えるのかも知れません。
物体が持つ本当の姿である「波」とは、2次元の姿であり、
出現確率が不確定である4次元が確定した姿が「粒」であるとした場合、
この3次元には、2次元と4次元という世界が重なり合っているもののよう感じられました。
この2次元と4次元は、各々が存在確率を持つが故に、
俺たち(3次元)で感知できる「情報」を持つことができません。
影を見ることしかできない俺たちは、2次元と4次元を間接的にしか感じることはできず、
それを直接見ることは困難です。
曖昧さとは、2つの「存在確率」が混ざり合っている状態と思えました。
厳密に書けば、
・2次元における時間の確定は「出現確率」
・3次元における時間の確定は「確定確率」
とでも言えばいいのでしょうか。
これらは、俺たちの世界から見れば「確率」として見えてしまいますが、
2次元と3次元と4次元が複雑に入り乱れた結果なのかも知れません。
仮に、確率というものが、
俺の体験に基づく「2次元」と「4次元」がもたらした結果だったとしても、
エネルギーの伝達や、それを伝達する媒体である空間とは一体何なのでしょうか。
「存在確率」が確定できたとしても、物体が空間を動くということ、エネルギーが空間を伝達するということ。
これらの「位置」や「速度」とは、まるで、これらの出来事が生じている空間の外側に、
あたかも「時間」があって、あらゆる物事を進める力を決定しているように思えてしまいます。
例えるなら、この世界は紙芝居であり、その外側には紙芝居をめくる人がいる、
このようにも表現できるかも知れません。
俺たちは「時間の箱庭(あるいは、牢獄)」の中にいるのでしょうか。
エキセントリックな言葉が次々と出現し、
当時の自分の精神状態が、相当に奇異だったことを感じていただけたと思いますが、
開き直って言えば「分かったんだから仕方ない」などと発言しようとものなら、
医師はおそらく「はい、お薬増やしましょうねー」と言うに違いないでしょう。
(当時にこの話を略して伝えた際には『頭を休めましょう』と言ってくださいました)
ともあれ、こんな感じのことが次々と「分かっていく」ように思える感覚は、
今にして思えば病的だったのだろうな、という感想を持つものです。
ただ、このスレは「病的だと、あえて想定しない」ことが趣旨のため、
次には、空間や速度、あるいは距離に関する体験を書き、
やがては、俺が苦手とするスピリチュアルに関わる内容にも踏み込んでいきたいと考えています。
神の声を聞いたり宇宙の摂理がわかったと言う人の体験もこんな風だったのかと思うよ。
みんな病気のせいだとは言わないけれど。
しかし、1はよくあっち側の世界に行ってしまわなかったなあ。
今は仕事とか、社会生活はどうなの?
仕事は発症後3日で復帰できたことが幸いして、
日常生活には特に支障はないまで回復しました。
経営も順調です。
社会生活がどこまでの範囲なのかは分かりませんが、
罹患の経験は、町内会に参画するきっかけにもなりました。
今は、精神科医と協力して、
統合失調症に関する認知機能障害の分析を進めています。
精神病に見えないわ
俺が統合失調症の罹患歴を持つことは事実です。
今は寛解していますから、認知は正常の範囲内であり、
健常者と同等以上の生活を送ることができますが、
発症当時の俺の認知は、著しい障害を受けていたことは、
今も思い出すことができます。
紙食べた時に近い体験しました
タヒんだほうがマシだと思えるほど苦しんだ挙句、
完全に安心の光のレイヤーに抜け出たんです
詳細は省きます
問いと同時に答えがありました
私は1のように聡明でないので
識る範囲がもっとフワッとした感じでしたが、
人はもちろん、動物も草もみんな意識が繋がって
言うなれば完全な円だという事を識ります
バッドに入る前は時間がまさに紙芝居でした
人間の集中する意識と連動してました
我に返った時が次の場面がめくれた時
連投失礼
増幅した部分が生存確率の候補とは、量子のスリット実験を思わせますね
興味深いです
実は、この考え方こそが、統合失調症による妄想を否定する際、
まず最初に利用した切り込み口でした。
しかし、事実と異なることは十分に理解しながらも、
このスレでは、体験によって「知った」と感じたことを、
ありのまま書くことを目的とするため、
恥ずかしいですが、あえて書いていきたいと思います。
仮に俺と類似の体験をしたなら、心配してしまいます。
それはそれとして、二重スリット実験は自宅でも試したことがあります。
シャーペンの芯に赤いレーザー光を当てると、確かに干渉波が出現し、
なぜか、青色のレーザー光では出現しませんでした。
多分、光の広がり方の違いだと思うのですが、
こうした事実を見るというのは楽しいものと思った次第です。
時間とは経過するもの、空間はそこにあるものであり、双方はまったく異なる性質を持つように見えます。
けれども、俺が「知った」事柄は、俺が子供の頃から不思議に思っていた、
「なぜ、距離を移動すると時間を消費し、時間を移動すると距離を消費するのだろう」
という疑問に答えを与えてくれるもののように思えました。
俺たちが生きている世界、ここに空間が存在します。
出現確率の増幅と、確定確率の増幅によって「確定情報」が与えられたものが物体であるとしたら、
そもそも、「存在しているけど、なんかフワフワした感じ」とも表現できる空間、
その中で生じる「距離」や「質量」、さらに言えば「速度」とは何なのでしょうか。
これを明らかにするために、「空間」とは何か、この問題に取り組みます。
俺たちにとって最も身近な空間とは、暮らしている自宅や、その近所、
そこには空間が途絶えることなく広がり続け、それは宇宙の果てにまで続きます。
これは、当たり前のことであって、別に不思議なものとは考えられない事実です。
けれども、もし「では、空間って何?」と聞かれれば、それは答えづらいものです。
俺の「知った」ことは、空間とは「超3次元」とも言えるものであるという、
なんともエキセントリックなものでした。
空間も3次元に存在するものですが、そこには「確定情報」は存在しないものです。
忽然とそこに物質が生まれたり、空間が突如として消失することはありません。
この礼儀正しさを生み出しているものは、2次元が持つ波の性質のように感じました。
俺たちから見ると、例えば宇宙空間には何も無いように見えます。
厳密に言えばガスや塵などが宇宙空間を漂っているのですが、
仮に何も無い、ほぼ真空の状態の空間があるとします。
そこには何もありません。
数個の素粒子は飛び交っているかも知れませんが、そこはほぼ完全な真空です。
そこには存在確率が確定するものがなく、何もないが故に、存在できないように思えます。
しかし、そこには出現確率の候補が増幅しています。
それらは出現確率でしかなく、そこには確定情報は与えられません。
けれども、出現が確定しない状態で、存在確率の候補は消えてしまいます。
存在確率の消滅は、単純に2次元の波の増幅が落ち着き、存在確率が低下したためです。
この「存在確率の低下」の際、負の存在確率が出現します。
正と負の存在確率は打ち消し合い、やがて存在確率は負へと傾きます。
けれども、その負の存在確率は低下し、そこには正の存在確率が出現し・・・
これを繰り返します。
もし、3次元にこの「波の増幅」を出現させているとしたら、
その平面は3次元にも対応した「超平面」でなくてはなりません。
そして、波の増幅が正・負を繰り返すのなら、
それが輪ゴムのような形をしている以上、
正は外側への増幅、負は内側への増幅と仮定した場合、
負の増幅は表だって現れることはできないはずです。
これは、今まで次元として表して来た2次元、3次元、4次元の関係を、
「影」に例えるのなら、その仮定に即した姿に改める必要があります。
それは、高い次元からの光源は、2次元の影を3次元に落とす、と表現できるかも知れません。
そこで、2次元にある本当の物質の姿、
つまり「ゴムのような波」に対して、新たな座標軸を与えます。
超2次元とも言えるものとなった「ゴムのような波」は、
一般的な次元へと拡張されて「3次元」となります。
しかし、存在確率が不確定のため、広がりのみを持つことになります。
「3次元であるが、4次元の広がりを持つもの」、
言うなれば「超3次元」とも言うべきものが空間であり、
確定情報(時間)の軸を移動することになります。
しかし、同時に3次元軸へも移動しているとも言えるのですから、
速度と距離は結果として時間に対して作用する力となります。
仮に空間が「A軸」を得た超3次元軸の集合体だとした場合、
そこに物体を置くと、そこの時間が引き延ばされてしまうのです。
なぜなら、A軸へ移動する場合、物体は空間の不確定群とぶつかります。
その不確定群とぶつかることで速度は制限され、
この時、A軸の移動を妨げられているわけですから、結果として時間は遅くなります。
時間の引き延ばしは重力によって生じるものです。
しかし、俺の「知った」こととは矛盾する結果であり、
この結果によって、これが俺の妄想の結果であるとする根拠の1つでもあります。
物体によって空間は曲がらず、時間だけで遅くなるということは、
A軸を3次元軸に変換しているので、位置情報も曲がるわけですから、
見た目は「空間が曲がっているように見える」とは思うのですが。
そもそも「重力ありて時間が曲がる」ことが当たり前のことなのに、
「時間がありて重力のように見える」とは、あまりにエキセントリックです。
こう言っているようなものです。
ともあれ、これが空間に関する、俺の「知った」ことの内容です。
次には、「追加の瞑想ごっこ」によって得ることになった、
様々なことを書いていきたいと思います。
しかし、ここから先は、スピリチュアルとも捉えることができる内容のため、
あまり肯定的なことは書けないかも知れません。
これは、決してスピリチュアルに関わる方々を否定する目的ではなく、
俺の個人的なスタンスである「科学的なことしか信じない」という、
言うなればこだわりのようなものです。
哲学的な知識もあるのかな?
物理学に関する知識は興味の範疇で知っていますが、
哲学については興味がないので知識はありません。
中学・高校の時に「なぜ自分たちはここにいるのか」のような疑問は感じましたが、
それ以降は、その手の話題には疎い状態です。
心配ですか
もう古い話ですし今のところ平気
不思議な出来事が増えた位ですね
ある次元を観察するには一つ上の次元からでないと無理だと何かで読みました
追加の瞑想ごっこの話も聞きたいです
ストーリー中に、設定上有り得ないはずのことが起こり、「なんで?なんで?」と頭の中クエスチョンマークでいっぱいになりながら読書を続けていると、登場人物が四苦八苦している次元のさらに上の次元が関わっていたというしかけでした。
そうなのかー
まあ自分も古本屋で立ち読みした入門書の程度しか知らんけど
なんか似たような事書いてあったなあと思って
ギリシャ哲学とかイデアとかの話だったかな?あの辺りの
でも思考に集中するってのもある意味瞑想状態に近い感じになってそうだから
そうやって突き詰めても同じような輪郭に至れるのかも知れないね。
映画「マトリックス」に似たようなイメージですね。
リング3部作は読んだのですが、貞子のキャラが強烈すぎて、
夜怖くて眠れなくなったのも良い思い出です。
>>41
スレッドを立てた理由は、内容は趣旨と目的を明確にするためでした。
色々混ざり合うと思想的や、宗教的な振る舞いをしてしまいそうで、
それを懸念しています。
>>42
弱ったことに、別に突き詰めて考えたわけではなく、
「分かる」という感覚が流れ込んできたのが俺の体験でした。
「5つの考え方」の内、残された2つについても取り組みます。
1.すべての存在の「始点」は1つである
5.すべては同一であり、しかしすべては同一ではない
これら2点は、「分かる」体験から得たものですが、
その仕組みがありありと感じられた(ように思えた)ものではありませんでした。
それは漠然としたもので、言うなれば抽象的な感覚です。
確かに瞑想ごっこの際に、周囲の風景と一体化した体験は、
「すべては1つである」という思いを、強く抱かせるものでした。
しかし、それよりもさらに根源的なものから湧き上がる、
源泉のような部分に、宇宙の秘密は隠されているように、当時は思いました。
そこが、良くSF映画などで表現される真っ白な世界なのか、
あるいは、光も物質も何もない真っ黒の世界なのか、
それは分かりませんでしたが、すべての原初には「有」があったようです。
なぜ、何も無いはずの場所に「有」があったのか、
すべてに始まりと終わりがあるはずであり、
有があれば無があり、無があれば有があるはずです。
これは、この法則に一致しないものです。
けれども、その「有」は完全なものであり、
完全であるが故に、自らを維持することが難しいものです。
2次元の上の次元、3次元の上の次元、そして4次元の上にも次元があれば、
それは「時間」として認識されます。
この無限の関係性は、その次元が「完全ではない」ということを告げています。
完全であれば、すべての次元を含むはずであり、
不確定な時間などというものを意識する必要はありません。
けれども、完全であるということは、
「時間を含む座標軸のすべてが確定している」ということです。
そこには不確定性は無く、同時に時間もありません。
完全な世界では、この波の増幅も起こりません。
均一な波だけがあり、時間もなく、そこでは「始まり」も「終わり」もありません。
しかし、そこは「無」ですらありません。
完全な「有」とは、「有」であり過ぎるために、
「無」も含めて、何も許さないのです。
すべての始まりには、このような完全な「有」があり、
それ故に、すべては1つでした。
力や物質のような区別もなく、波や次元すらも、何もかもが1つでした。
しかし、「1つ」という概念からも1つになっているため、
そこには数という概念すらも存在せず、ただ漠然とした「1つ」があるだけです。
そもそも「有」というものすら「1つ」であり、
誕生や終わりというものすらありません。
何もかもが1つ、これが完全な「有」です。
あまりにも完全すぎて、その存在は常に1です。
しかし、1という完全な状態を持つのと同じく、0という完全な状態も持ちます。
完全であるということは、2つの状態を同時に持つことができるのです。
1と0は完全ですが、1と0が存在する状態は確定しています。
「完全な有」は、自らを維持するために「1」を完全に持とうとします。
同時に「0」も持とうとしますが、それは存在しないものであるため、
確定的に、不確定性を帯びた「1」を選択します。
不確定性によって生まれたもの、それは状態を変化させる「時間」でした。
自発的に完全性が崩壊した「1つ」は、その不確定性を増殖させます。
それは様々な状態へと爆発的に増幅し、あらゆる状態を爆発的に作り出しました。
時間はその不確定性を維持するために自らの軸を、求めに応じて渡します。
けれども、自らも完全性を維持するために、別の時間から軸を奪います。
奪う、奪われるの関係はやがて安定したサイクルを生み出し、
3次元からは、
・軸が少なく見える時間は、空間以外は認識できない
・軸が多く見える時間は、複数の状態を持って認識される
という形となった、
俺が「知った」ことは、漠然としていますが、以上のとおりです。
俺としては「有」には始まりがあるように思えるのですが、
しかし、その「完全な有」には始まりはないようなのです。
元々そこに有ったとか、そういう問題ではなく、
そこに有るということが絶対的であり、有は無限に続くように思えました。
これも、なかなかにエキセントリックな内容ですが、
ともかく「有」とは、根本的に「有」なのだ、
なんとも納得できませんが、これが宇宙の秘密の1つと感じました。
となると「数学には0の概念があるじゃないか!」と思ってしまうのですが、
これは「ステージ」と呼ばれる相のようなもので解決されるようです。
これ以上は俺には分かりません。
1が有で、0が無で、でも完全な無は概念上も、認知し得るものですらないというか存在しえない、、、でも1はその無である0すら含んでいる。完全な1それは無であり0である??
結局、何が言いたいの?
自分の得たインスピレーションに具体的な血肉を与えられないと、意味ないよ。
ニュートンは、りんごの落下を目撃したのをきっかけに、
月が地球の周囲を回るのも、りんごが落下するのも、
同じ数式で計算できる、同じ法則なのだと解明したね。
そこがゴールであって、手に入れたイメージ、啓示というものは、
あくまでもスタートラインだよ。
理論展開して、はじめて、未知なるものの正体に触れることが出来るようになる。
本人はそうは思ってはいないだろうけれどね。
わかったという感覚、たぶんこれが病的なんだと思う。
それこそが認知の歪みだと思う。
有名な、E=MC2の公式だね(2は小さな2だから、PC的にはE=MC^2)
Eはエネルギー
Mは質量
Cは光の速さ
光の速さは、この宇宙では、常に1秒間に3億m進む。
ところが、E=MC2は、C2=E/Mとも表記できる。
これはつまり、光の速度は質量の大きさに反比例するという事でもある。
これでは、光が常に一定の速度で進むという事実と矛盾する。
でも、それは矛盾しているわけでなくて、物理学では、
【時間が伸び縮みする】
【空間が伸び縮みする】
という解釈をしている。
そういう意味では、時間と空間は同じもので、時間はXYZに続く第四の次元軸だといえる。
だたし、やはり時間と空間は、厳密には異なるものであり、時間には時間だけの特性が、空間には空間だけの特性があるはずである。
そうでなければ、時間だけが測定できないという状況は生まれない。
素人的には、時間と空間は、電力と磁力のような関係なのだうと思う。
とても近い性質を持つため、同じ公式で計算が出来る、けど、同じものかというと、同じではない。
という関係だ。
感覚に意味を与えられないと、そんなものは何の意味もなさないよ。
お腹がグーってなったことについて、
「お腹が空いている」
「そろそろなにか食べよう」
っていう意味を与えないと、ただお腹が鳴っているだけで終わってしまう。
そうすることで、ようやく【自分】が広がる。
自然科学でも人文科学でもそうなんだけれども、考えるということは基本的には疑うということなんだよ。
感覚に意味を与えることではない。
意味があると思ったことを客観的に実証して疑わしいものを削ぎ落としていく作業。
自分の直感(感覚)から離れる作業だよ。
腹が減ったという感覚だってほんとうは腹は減ってないことはよくある。
人の感覚なんてその程度にいい加減だということ。
プリントして百回読むわ俺
ご指南はありがたいのですが、
体験した内容を書くことが目的であり、
そこで得た感覚や体感を、物理学や量子力学に結びつけることを、目的とはしていません。
>>53,57
認知機能に関しては同感ですが、
このスレの趣旨は>>1のとおりなので、病気の所感を書くことはしません。
また、>>52へのレスにも書いたとおり、自らの体験に対して意味定義し、
何らかの学問に結びつけることを望みません。
このスレッドの目的は、あくまでも「俺の感想」を書くことに集約されます。
底流には「自分が統合失調症であり、これらは妄想に過ぎない」という認識がありますが、
それらをあえて想定しないことが、このスレッドを立てた理由であり、与えた役割です。
結果、俺の書き込む内容は、上記の趣旨と目的、理由に対して、愚直に沿ったものとなります。
あなたの「自らを正当化し、肯定しようとしている」と感じた気持ちも理解できますが、
このスレッドでは、自らの主張の定着、考え方の肯定、体験の証明などは目的に含まれません。
体験したことを書き、俺が最終的に辿り着いた感想を述べることが目的ですので、
誤解なくお願いします。
ところで「では、なぜ書くのか」と疑問を持ったと思いますが、
それは、俺が書いていて「おもしろい」と感じるからです。
俺の感性では「おもしろい」に勝るものはないと考えています。
あなたは、自分の体験や感覚を正当化したり主張することに目的があるのではなく記述することに目的があるのだとすれば、よく理解できるよ。
相対性理論+量子理論=統一理論(まだ確定したわけではないけれど超弦理論)でしょ。
12次元とか、次元が薄い膜のようだったり、ゴムみたいに伸び縮みするって考え方は、
もろ超弦理論だよ。
>>60
それで満足してるなら、それでいいんだよ。
押し付けるつもりはない。
この手のことは、ナニが正解かなんて、誰にも判らんもの。
完全ではないにせよその概要が何たるかを一定程度理解してる人はどんな世界を想像できるんでしょうか。
一個一個擦り合わせなんてできないけど、空間とか次元の有り様に、我々の意識ってどういう風に存在とか位置してるかって説明してもらえる方いないでしょうか。
超弦理論の内容に意識のなんたるかとか、世に言う魂とかの理屈ってそもそも含まれてないのでしょうか。
誰か優しい人教えて~(ミュージシャン村八分風にお願いしてみました)
その直感的な分かった、感じたものの輪郭が何処まで一致するのかは興味がある
時間は存在しないという立場を採る理論物理学者
ジュリアン・バーバー(Julian Barbour, 1937-)について書かれたブログ
基本的に、俺の体験内容は事実とは結びつかないと考えていますし、
ここから書く内容は輪をかけてエキセントリックなものですので、
期待される結果とはならないかも知れません。
>>65
「時間」と呼ばれるものは俺もないと考えています。
俺たちが間接的に感じている「時間」は、
実際の時間ではないのかも知れません。
世界の構造を読み解こうとする多様なジャンルの研究者、学者が触れようとして得る外枠は同じなんかなと思ってる
結び付かない独創的な部分があったらそれはそれで凄い気になる
まあ結局それも利用するんだけど
アインシュタインも時間は無いって言ってなかったっけかな
と言うわけで続きはよ
でも、空間が1か0かとか、何次元にいる我々が三次元の認識をしているかとか、時間が存在しているか、とかって、あくまでおおもとの1か0か以外は、
ともすればその1か0かという有無という認識すら、全て我々意識にとって都合のいい、認知認識するための概念を定義づけるためのものであり、当然我々の意識が存在しなくとも空間はあるという前提なんだろうけど、
認識しようとしている空間が我々の意識で認識されようとするための区分けである以上、我々の意識での認識方法を超えない限り、実情は見えない気がした。
相対性理論と量子論を足したものが超弦理論だとしたら、1か0かに意識や自我を足した理屈を見つけたい
我思う故に我有り、であり、ここでいう我は、その認識する空間や派生する概念を含む。
意識や認識方法に基づた空間でしかないのだ。
哲学や屁理屈的解釈だと私自身が止めてしまえばそれまでだが、
哲学を非科学であると定義づけてしまうことだけであれば、むしろそれは科学が狭い条件にのみ基づいたものになってしまう。
あえて、哲学的だと思しきこの考えを反映させてみる。
意識が空間時間などを包有する次元を認識するのではなく、意識自体がそれを生み出している・むしろ意識自体がそれそのものなのだ。
神だとか愛だとか意識が宇宙に影響を与えるのだ云々といえばいよいよ前衛的宗教の香がするが、
前述の全て包有しようとしてこその科学だと攻めてみると、また、1か0かが大元の出発であるとすればどちらかでありさえすれば、あとはその有り様は大差ないとし、
仮にデタラメのようでも一つ概念を派生させてしまえばそれもまた有であるとすれば、有は意識ありきであり、意識こそが有の根源もしくは有そのものであると定義づけてみたい。
支離 滅!裂!!
主観とは俺たちの個々が感知しているものです。
各々に主観があり、主観があるため客観があります。
どちらが先なのか、このようにお考えなのかも知れませんが、
俺たちという「個々」のステージから言えば、主観があり客観が生まれます。
仮に、客観がまずあって主観が生まれるとしたら、俺たちはそれを「感想」と呼ぶでしょう。
>>68-70
どこまでも続く空間とは、どこまでも「時間」という概念が続くということです。
その解釈が生み出す概念的なものは俺たちの認識に過ぎないと俺は考えています。
なぜ、我々の世界は変化するのか。
あるいは、空間を進むには時間が必要なのか、なぜ距離があるのか。
こちらの方が「狭い科学」より不思議な自然原理と言えます。
その際、天井あたりからゆっくりと降りて肉体に戻ったことがあってな
肉体に入る寸前まで、室内を完全に認知しながら降りてきたのに、
肉体に入って同期する瞬間にその室内がぐるっと回転した
あ、方向という概念は肉体にしか無いのだ、それが今戻った瞬間だったのだ、と理解したのを覚えてる
肉体から出ていても体感として室内はあった、外側にある世界、空間と認識していた
だがそれは肉体を離れた意識が、自分で馴染みの空間を作りながら
移動感覚を作り出していたような気がする
たまたまその時は戻った肉体が目を開けていたようで、
意識の空間認識と肉体の三次元空間認識の角度のずれが見えたまま一気に正された…
というか、方向という概念が足された!と感じたのだ
本当に抜け出しているなら、政治家の家でも行って、その政治家の政治生命を終わらせられるような秘密を漁ってくればいい。
そういうレベルなら、さすがに皆が信じるから。
誰が居たとかどんな話ししてたとか、そんなの、感度が高ければ寝てても感知できる。
肉体感覚の有無で認識に差異があったということの発見だから
別に明晰夢でもいんでね?
とても人々が信じたくないことの場合、人々の方がそれを認めないだろうし、政治家本人が認めるわけはないと思うし、トンデモであればあるほど怪しい2チャンネル情報ってことにされてしまう気がするもの。
どっちが先というか、主さんが「わかった!」という感覚の時のことを想像したのですが、それは主観と客観を超えたところの「わかった!」だったことみたいにわたしに伝わって来たんです。
主さんとわたしは別々の人格を持っててこうやってお話しているんですけれど、その「わかった!」の場所ではわたしは主さんにとって他者っていうことになるのかなぁ、とおもって。
今だって、ユダヤ陰謀論とかあってもそれを信じる人と信じない人に別れているし、「エリザベス女王 裁判」でググッてみればわかるけど、有罪になってても世界はビックリしないよ?
1さん個人の意思ですか
繋がってる場との共鳴の結果
生まれてくる衝動のようなものですか
ユダヤ(イスラエル)は、イスラム教国に核を持たせないために空爆したり、
目に見える形で現実に行動をとっているので、
当然だけれど、
目に見えあい所でも行動はとっている。
そういう意味では、ユダヤは間違いなく陰謀を企てて行動している。
あとは、想像をどれだけ膨らませるかという点だけが焦点になるのであり、
陰謀の有無という点については、議論をする余地がない。
明白に、ユダヤは陰謀企てているし、実行している。
それが、ユダヤの教義にどれだけそったものであるかはしらんけど、
イスラム教は異教徒だから核を持たせる前に殺すっていうのは、紛れもなく陰謀である。
ご教示ありがたいのですが、既に寛解しており、残遺していた認知機能障害も消失しているので、
ヘンプ(産業用大麻)に頼る要素がない現状です。
別に量子論とかでは1の言ってるようなことなんて語られてるしエキセントリックエキセントリック言ってなんとか否定しようとしてるのも滑稽な感じ
ある意味自分の経験が病気による特殊な現象と考えたいらしいけど同じような経験してる人なんて沢山いるんだから自分の偏狭な価値観で必タヒに否定しなくてもいいのに
まぁ統合失調症(なのか正直微妙な気がするけど)になったのも本人が科学主義者だったからこんな体験は本当なわけがない自分がおかしくなったんだと歪めて捉えたことから統合失調症的な症状が出たんだろう
多分自己の価値観を守るために科学主義的な世界観の常識こそが正しく自分がおかしくなったと考えた自己防衛と言ったところかな
そんなにこだわりのない人なら素直にありのままの体験を信じてただろうし統合失調症的な症状も出なかったんじゃないかな
この人は1元唯物論者だったけど自己の悟りの体験から唯心論者になってるからなにかの参考になるかもね
http://mallam.oh.land.to:8080/Mindtech/index.php?%27%27%A5%E1%A5%BD%A5%C3%A5%C9%C8%AF%B8%AB%A4%CB%BB%EA%A4%EB%BC%AB%B8%CA%C3%B5%B5%E1%A4%CE%CE%B9%27%27
後1の感じてる世界観はこれが近いと感じるけど
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ACIM
まぁキリスト教の現代解釈版みたいな感じで宗教色強いから読みにくいとは思うけど
>この人は1元唯物論者だったけど自己の悟りの体験から唯心論者になってるからなにかの参考になるかもね
変なとこに1って入っちゃったけどただの元唯物論者の間違いねw
まぁもしよかったら読んでみて感想聞かせてね
俺も知識はあるけど体験がまだない人だから1から見たらどうなのかなと気になってね
症状の中にいる状態が同じだとして、また大きな視点で見れば統合失調症患者と目覚めをした者が同じであるとしても、
何かから解き放たれた、または何かしらの状態に入った人間は物事の認知方法を変容させる過程において、副産物的にその状態を経る。
おそらく一般的に人間に認知されている世界と、他生物なら当然違う世界を認知しているが、
限定的に例えば共感覚を持った人間、ADHD?ギフテッドの人間とかオーラが見える人とか、
もちろん一般的な人間でも個々で様々な差があるのだろうけど、たまたま現在最先端の科学的知識を、次元の有り様であったり、超ひも理論?などなど、
を認識として、実感として感じ得ている、それが知識発の、知識由来のものなのか、もしくは体験ありきの後付けとして現在の科学を言葉として認識し直したものなのか、そこも興味深い。
ACIMの考え方は理解できます。
けれども、自我が幻影を見ているとしても、その影を見るためには自我というツールが必要であり、
影を見なければ、また光を見ることもできません。
非常にエキセントリックな言い方ですが、俺はこの世界にある限り、
物質という状態が古典的な物理としての世界を支配していると考えています。
いずれ書かせていただきたいと思っているのですが、体験によって俺が「知ったこと」の一つに、
「この世界の理由」というものがあります。
それは、到底科学的な考え方に基づくとは言えず、俺たちの精神活動、
いや脳機能を利用して世界に干渉しようとする、あるいは無機物にすら宿る「真実の観察眼」こそが、
すべての本質であると感じたことを白状します。
この世界において、俺たちが感知しているもの、これらはすべて境界に過ぎず、
その境界に降り積もった情報が「物質」または「存在」であるのだとしたら、
俺たちも、この世界も、「内容」を見ることができないからこそ、「ただそこに有る」のかも知れません。
レスターの感じた「すべては同一であり、限り無い海である」という感覚については、
俺も体験の中で似た感情を抱きました。
しかし、この世界にある限りは、それを完全に受け入れることは肉体の消滅を意味します。
自我が見る幻影、その影を見るて、光を感じるためには、
自我というツールが必要である、俺の考え方はここに帰結します。
内容はいつもの如く私には理解しきれないものですが、、笑
改めてレスターに関してチョロチョロっと読んでみたのですが、
タコさんもおっしゃるようにこの次元を現象として支配しているのがやはり物資の状態であるものであるとすれば、生命としての意識が、特定すれば人の脳で意識したことが物資を介さずに、
ここでは先ず限定的に脳神経のパルス?とか電気的なものすら排除した状態でもその外界であるこの次元の物資にレスターのように影響を与えることがあり得るとお考えでしょうか。
真実の観察眼、これはどのようなものかを私達エキセントリックな体験をしたことがないものが理解することは可能でしょうか。
生命が意識を持つこと、この世界諸々に何か目的があってこその存在として私達があるとお考えでしょうか。
書き込み全体を見て、以前特殊な能力を持っていると思しき方とお付き合いがある時に、何気なく見かけた山の植物や山の形、成り立ちに意味があり、その山を理解していた様子を思い出し、その様な認識に類似しているかとも推察し興味深いです。
お答え頂ける気になったものだけでももしあれば解説頂ければ幸いです。
与えると思いますが、それは非常に小さな値だと思います。
「考える」というよりも、言動や感情といった物事は「本当の物質」である波に影響し、
その存在確率を上昇させるとは思います。
>真実の観察眼を理解することができるか
俺たちは常にそれを体験しているので可能です。
「真実の観察眼」などと表現しましたが、実際にはこれは波の増幅です。
>この世界に意味はあるのか
意味の有無は分かりませんが、役割はあると考えています。
個人的に生きる意味は考えたことがないので、「ただここにいる」ことが意味なのかも知れません。
>特殊な能力を持つ人
俺は霊能力や超能力は肯定し辛いスタンスで、この世界で起きた出来事は、必ず科学的な理由があると考えています。
山の形は地殻変動や風や水による風化、植物の形は進化の合理性です。
これらはスタート地点に意味が予め用意されていたわけではなく、
時間の経過に伴って、これらの事情が持ち得た「変化の積み重ね」による対外的な意味だと考えています。
つまり、「ゴール(目的)」へ向かう道程で獲得した形に対して、俺たちが勝手に意味を見いだしているに過ぎません。
例えば、被捕食側の生物が補食されないように自らに意味を持たせようとするなら、
自身に毒の性質を与えれば良いのですが、多くのプランクトンには毒はありません。
しかし、プランクトンは食物連鎖の底辺という役割があります。
「食べられるのなら無数にあれば良い」のではなく「無数にあるから食べられる」と考えると、
俺たちに与えられている意味は、ただの幻であって、自らが持つ役割に気づくことが重要であると、俺は思考します。
「食べられるのなら無数にあれば良い」のではなく「無数にあるから食べられる」と考えると、
↓
「食べられるのなら無数にあれば良い」のではなく「無数にあるから食べられても平気」と考えると、
増幅という言葉からイメージするのは、やはり広げる、増えるといったものですが、
それは例えば世に言う宇宙が膨張していったということと同じような意味で、この世界にある存在は広がっているからこそ存在しており、
その広がるという性質を持っているからこそ存在しているという考えでいいのでしょうか。
もしくは上記のように後付けで存在意義があるのではなく、広がっていくために存在を与えられたという意味での役割があるということでしょうか。
また、もしそうであるとすれば、その役割を与えたのはどのような存在だとお考えでしょうか。
増幅とは物質が本質的には波であるという意味なので、
干渉し合うことはあっても、増えることはないと考えています。
よって、限度を超えて広がることはありません。
役割は時間経過に伴って自らが獲得するものです。
この世界が持つ意味はあると思いますが、それはプロセスの中で生み出されたものです。
それを与えた超越者のような存在は想定していません。
ご教授を受けて結び付いた質問にならないかもしれませんが、いつも懲りずに興味を抱いている、
我々の意識というものは、どのような位置づけでタコさんはお考えでしょうか。
波の増幅の為に必要で自然発生的に生じたものなのか、もしくはまたそことは別の意味をもって、独立した存在たり得るものとお考えでしょうか。
自然発生的であるとするならばいずれコンピューターなどにも必要に応じて発生し得るものなのか、
もしくはかりにそうであったとしても、その意識も含めて、それが自己、自意識を持ち得た時点で何かしらの意図があり、
ただ単に増幅の為に必要で派生するものなのか、物質とは別に切り取られた立場で意識という存在に意味はあると設定できるものなのでしょうか。
> その境界に降り積もった情報が「物質」または「存在」であるのだとしたら、
> 俺たちも、この世界も、「内容」を見ることができないからこそ、「ただそこに有る」のかも知れません。
すんげえゾクゾクしたわ
俺の考え方では意識は脳が生み出す幻だと考えています。
タヒねば無明の闇です、いや闇すら認識できないでしょう。
しかし、俺の体験群はそれをあたかも否定するかのような内容でした。
俺はそもそも霊的なもの、超能力のようなものを一切信じない人間なのですが、
それらの前提がありながら正直に言えば、俺の認識は間違っている可能性を感じてしまうことは事実です。
この考え方は大変にエキセントリックです。
何しろ、俺たちが生きている「物質に執着する世界」の他に、少なくとも10の世界があるなど、
科学では説明できるものではありません。
いや、この世界が境界であると言うのなら、この世界には無数の世界があるということになります。
それらの話題に踏み込むということは、俺の考え方を完全に否定するということです。
しかし、このスレッドにはその役割を与えています。
「世界の仕組みとはこうなっているのだ」などと言う話題がこの先には続きます。
よって、
>波の増幅とは独立した知性を持つものか
>コンピューター上にも自律的知能は自発的に発生するのか
>自意識に意味はあるのか
これらは、それぞれが異なるステージの質問であり、中には以前の回答と重複するものがあります。
>波の増幅とは独立した知性を持つものか
俺たちの世界とは異なるのですから、知能の定義が不明ですので、分かりません。
>コンピューター上にも自律的知能は自発的に発生するのか
ネットワークに知能が生まれる可能性は否定しませんが、
それらは俺たちから見たら「カルチャー」に見えるでしょう。
>自意識に意味はあるのか
前のレスにも書きましたが、
俺は「役割」を重視しますので、意味については分かりません。
むしろ、意味を付与しているのは俺たち人間でしかないと考えます。
これらの質問以外にもいくつかの疑問はあると思いますが、
俺の現在の書き込みは全体の1割にも満たないので、1つの事柄にこだわるのは誤りと考えます。
書き込み方の方向性が分かりました。
ありがとうございました。
理解できず、しかも忘れて思いつきでぱっぱと思ったことばかり書き込んでしまいました 汗
境界としての物質は昼間ぽやんと考えている時に、あくまで人間が活動するために物質諸々を我々の定義で認識することが必要なのであって、
全く離れた視点から見ると、その空間に何がどのように存在しているかということは、意味をなさないもしくは別の意味を持つというのが少し理解できた気がします。
生命もしくは知的好奇心の高い人間としても、エキセントリックすぎる体験を基にした認識だというニュアンスでおっしゃったことがあったと思いますが、
もし仮にそれが現在の我々の一般的な認識として何かしらの危険をはらむものであるとしても、かつて人類が無謀な航海をしたことと同じように、
当然損得や善悪などの次元と別の所で、新しい方向へ進む必然性、性質と理解すると、
それをするのが我々人間なのだということもできるのだろうと感じました。
生命が誕生して、己を残そうとする性質をもった命が存在し続け、単純な予想として、
遥か先に人類など知性を持った生命が何かしらの方法でどのような環境でも確実に自己に近い形で生命を永遠に残すことができるようになった次の段階で、
その次に生命を想像もつかないような別の次元へ持っていこうとする性質をもった存在が、残ろう、繋げようとする存在に同様になり得るとしたら、
段階が現段階では仮に早いとしても、タコさんのようなエキセントリックな方向にその性を持つ者もまたありうるのだと感じました。
うろ覚えかつその理論が実証されているものかは不確かですが、
いくつもの次元や宇宙が存在していることは理論としてそれなりの立場があるというのをNHKの科学特番で観た記憶があります。
タコさんのおっしゃったことはまた根本的に意味が違ってて百も承知だと思うので先にあやまっておきます 汗 笑
そして、「すべてが同一ではない」ということ。
この2つについて、俺の「知った」ことを書いていきたいと思います。
>>50の続きです。
かつて、この宇宙が存在する以前には「完全な有」という状態があり、
それが自発的に不確定性を生み出したことで、
とてつもなく小さな時間の引き延ばしがあったことを書きました。
俺たちが住む宇宙では、多くのものが存在しています。
他人がいて、目の前にあるパソコンも俺たち自身ではありません。
これらは別個のものであり、それらを同一とすることは困難です。
しかし、俺たちが住む宇宙に対して、1つ次元を加えた世界(上の次元)から見た場合、
これらの「別個の状態」とは、どのように見えるでしょうか。
XYZ軸によって生み出される宇宙に、不確定なA軸を加えた世界、
これを仮に4次元と呼ぶとしたら、そこでもXYZA軸に対応する、縦・横・高さ、加えて俺たちが呼ぶ時間は、
入れ替えても構わないことになります。
不確定であるA軸が4次元では確定しているのですから、俺たちの世界は、何もかもが決定しているように見え、
そこでは、始まりも終わりも、その過程もすべてが融合した状態であり、
俺たちが体感している「変化」というものを察することはできないように見えるかも知れません。
無数に存在する「個別」のものは、そこにはありません。
俺たちの周囲に存在するもの、これらは不確定性が生み出しているものであり、
これらには不確定であるが故に、その存在確率にムラがあります。
ムラとは、本質的に「有る」という状態が不安定であって、その存在確率が周囲に拡散しているとも言い換えることができます。
これらの存在確率は2次元が生み出す広がりであり、低い存在確率にも質量があります。
俺たちだけでなく、すべての物質には質量があり、それはわずかに空間を歪ませていますが、
2次元の広がり、つまり波によって与えられている存在確率が空間に質量を与えていることになります。
「有る」という状態も、「有るかも知れない」という状態も、確定して見えます。
俺たちは3次元にいるため、4次元の感覚を体感することはできませんが、
XYZA軸においても、空間のようなものがあり、そこでの存在確率を決定するものとして、
3次元は「波のようなもの」として作用しているのかも知れません。
俺は「瞑想ごっこ」の体験の中で、宇宙の外側の、さらに外側を目撃するという、
エキセントリックな体験をしました。
そこには、宇宙のようなものがあり、星のようなもの、銀河のようなものがありましたが、
この体験によって、その世界に感じた役割は「如何様ににも成るもの」、「成りて成るもの」というものでした。
そこで見た実体、俺たちが住む宇宙での実体、2次元にある実体、
これらの実体は、実際には実体ではなく、ただの情報に過ぎないものであるように思えます。
ただ、情報を与えられた存在確率、その背景にある「存在確率としての波」とは、お互いに絡み合い、もつれ合っているものです。
俺は「2次元の波」と書きましたが、この波には様々な軸への対応があり、
俺たちにとって感知し得ない軸情報すら持つようにも思えるものでした。
宇宙は、大規模構造で、大規模構造は銀河で。
銀河は恒星や惑星で、恒星や惑星は分子で、そして原子、さらには素粒子。
どこまで辿っても、そこには内容はありません。
加えるなら、これ以上分解できないとされる素粒子の内側を見ることは現在は困難です。
分解できない究極のもの、それが存在するということ。
そして、どこまで分解しても、どこまでも分解できてしまうということ。
これらは、俺たちが見ているすべての物質は、表面的なものでしかなく、
仮にこれを地表に降り積もった雪のようなイメージとして表現するなら、
俺たちは、「境界」に降り積もった情報を見ているに過ぎない、ということになります。
非常に小さな世界では、この境界に降り積もった存在自体すら揺らいでいても、別に不思議な話ではありません。
そこに「無数に同じものがある」と言えば、何やら不気味に感じてしまいますが、
単純に存在確率が不確定であるのであって、俺たちが観測と呼ぶ事象、
正確に言えば、存在確率を確定させるような出来事が起これば、存在が確定するだけです。
俺の「知った」こととして表現すれば、それは波でしかありません。
そもそも、内容などというものはなく、俺たちは存在という「影」の世界に生きているとしたら、
元来より内容などというものは存在せず、それは抽象的な概念に過ぎないのかも知れません。
これらの「影」を生み出しているもの、お互いに絡み合い、もつれ合っているもの、
それは俺たちには見えませんが、それらは俺たちにすべからく全てに流れる源流です。
■1.すべての存在の「始点」は1つである
俺の体験において、「完全な有」から始まった世界、その始まりは1つである、
これは強く感じた感覚でした。
この完全な有によって生まれた「不確定な有」、
俺は「有りて有る」という言葉を俺は用いますが、これが「有」という状態を作り出している、
それが、俺の「始まりとしての一つの始点」という感覚です。
■5.すべては同一であり、しかしすべては同一ではない
俺の体験における「複数のものが存在する」という状態、
これは、俺たちという存在の底流にある「波」というもつれ合い、絡み合ったもの、
その結果として生み出された「存在確率」に「情報」が与えられただけの影である。
俺にはこのように強く感じるものでした。
俺たちはただ単に存在の砂漠にあり、その砂を存在として見ているに過ぎず、
故に俺たちも、砂漠の砂の一つに過ぎないのかも知れません。
俯瞰で見ると、我々の世界でおこっているあらゆる事象、また心の動きさえももしかしたら確定されているというのも想像できました。
完全なる1、有の状態が無を生み出した、とあるのですが、
不確定性をはらんだ状態を生み出すことによって、その生み出したものからの影響を完全なる1は受け得ない性質のものなのでしょうか。
完全なる1は不完全性を生み出し、それによって完全なる0にはならない、と。
理解できてないからこその質問になってはしまってると思いますが、、
また、宇宙の始まりと同じように、なぜ、その完全なる1が存在していたのか、元々ある、ありてある、というのが概念としてやはり理解しきれません。
完全なる無であれば世界はそもそも存在しないこととなり、それならば想像しやすいのですが、なぜ1なのか、結果として私たちはいるのか、、
謎です
俺のイメージでは、完全な有とはすべての状態を持つものです。
これは「固有の1点があった」とは俺たちからは見えないものです。
なぜなら、その完全な有は前にあり、後ろにもあるものであり、
この境界に降り積もった情報を見ている俺たちには、その本当の姿を垣間見ることは困難です。
軸や次元という言葉で表現したものは、ただの領域です。
領域同士がせめぎ合う僅かな表面に「時間」と呼ばれる不確定性が生まれ、
それらが、世界のあらゆる力を伝達する、言うなれば動画サイト等のシークバーの役割を果たしているに過ぎません。
完全な有には始まりはありません。
「始まり」も、「終わり」も俺たちが見ている境界上の情報です。
そもそも、始まりとは不確定性の選択であり、終わりとは不確定性の確定ですから、
この世界とは無数の終始が結びついているに過ぎず、それをさかのぼれば「すべての始まり」に行き着く、
これが、この世界の摂理です。
けれども、完全な有、言葉を変えれば「完全に達し得ない無」には、この概念は当てはまりません。
不確定性を秘めながら、常に完全であろうとする有にとって、始まりも終わりも意味を持ちません。
この宇宙とは、その不確定性のサイクルが「有限性」を得た結果に過ぎないものです。
なお、これらの体験内容は部分的に主治医に伝えて、
「変性意識状態」と解釈されています。
トランスパーソナル心理学では、これらの体験を肯定していますが、
俺の個人的な意見としては、
そこに強い多幸感が加わると、その変性意識を切望する状態へと陥り、
誤った利用法を続けた場合、脳機能に重篤な障害を引き起こす可能性があると考えています。
この体験をしている時、俺は自身の脳が過活動していることを強く感じます。
表現するなら、脳内のネットワーク中に流れる信号が高速で循環している状態、
それが続ければ、この信号は自らの意思によってもコントロールできなくなり、信号と意思が分離してしまいます。
こうなっては、アクセルとブレーキ装置が壊れた車と同じで、自らの意思で思考を抑制できなくなります。
無秩序な思考の暴走は、精神活動に強く作用することが懸念できますが、
「もっと速く」という感情を抑制できれば、これらの思考の暴走は抑えることが可能です。
一連の体験で、フロイト博士が提唱する「超自我」「理想的自我」の存在もありありと感じられたのですが、
それはさて置き、以降は「瞑想ごっこ」によって体験した内容に焦点を絞ります。
自らと図形や闇、闇の中に浮かぶ灯火のような光と一体化して、様々な体験をするのですが、
慣れてくると、こうした工程をジャンプすることができます。
例えるなら、RPGゲームのようにセーブポイントから再開できるような感覚で、
体験を比較的容易に継続することができます。
この体験の突入時、強い幸福感へと誘いがあります。
その多幸感に包まれれば「宇宙との一体化」のような体験へと向かいますが、
そこで、じっと幸福感の声色が消えるのを待っていると、自分の体験を客観的に知ることができるようになります。
最初は映像を闇の中で、小さな画面上に見ているだけですが、
それはやがて感覚を伴ったものへと変化していきます。
けれども、その際にもその体験が現実ではないことは理解しています。
幸福感が過ぎ去り、自分の意識の「波」とも呼べるものが、
映像として見える「波」と同調するような感覚、これはラジオの周波数のチューニングと似ていますが、
これを経て、自分の意識を明確に保った状態のまま、様々な光景を見ることは不思議な感覚です。
多くの人が信じているものとして、三途の川があり、その向こうには次の世界が広がっているというもの、
天国や地獄、あるいは、すぐに輪廻転生し新しい命を得て生まれ変わってくる。
様々な解釈があり、考え方があります。
俺の個人的な感覚としては、自意識とは脳機能が生み出しているものであるのだから、
肉体が生命活動を終えた時点で、すべては消失すると考えています。
けれども、不本意ながら自らの体験から得た様々な出来事を総合すると、
俺の信じる「自意識は脳機能が生み出すもの」という考え方は誤りである、
このような答えが導き出されてしまいます。
俺たちが存在する世界とは、複数の世界の内の一つである、このように感じました。
ここから解釈すると、何ともエキセントリックな感想を抱くことになります。
それは、俺たちの意識は様々な世界を、それぞれの役割に応じて行き来している、というものです。
俺が宇宙の外側で見た12の構造のイメージを、整理して作ってみました。
http://imgur.com/QTCcQIA
この図形には理由があり、本当は円形で描写したかったのですが、
作ってみたらゴチャゴチャしてしまったため、12の円形の交差部分を利用しています。
この12の構造が折りたたまれ、6の構造となったイメージも作成しました。
http://imgur.com/Rn4jNFq
これも、6の円形の交差部分を利用していますが、
作ってみたら、へちゃむくれな形になってしまったので、12の構造と同じ構成要素を使っています。
しかし、3の構造に折りたたまれた場合は、円形の交差部分の図形を60°回転しなければならず、
同一体としての無限の連続性は表現できませんでした。
描くのめちゃ大変だったんじゃないでしょうか。笑
この構造を見てこの図を思い出しました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/An_Exceptionally_Simple_Theory_of_Everything
はじめのスレッドから読ませて頂いていますが1さんの話にはとても引き込まれます。
続きの書き込み楽しみにしています。
どんなに遡って想像しようとしても、何もないところから有が生じることは理解できない、、
そもそも有 無にとらわれている俺には理解できないんでしょうね、、
有という概念が始まりありきのものではない、、
やっぱ無理だ、、
自意識のくだりは何となく想像できます。
世界の有無の次元から比べると、我々の意識ごときといっては何ですが、
我々生命が個々で存在しているという認識はあるにせよ、その生命というジャンル枠組自体の成り立ちを考えると、
個々の自意識、意識は個々それぞれ単独で所有していることにとらわれずとも、という概念はイメージできる気がします。
タコさんは今色々と経験してきて認識して、まだまだわからないこととか沢山ある感じですか?大枠はもう定まったのでしょうか。まだまだ謎だらけ?
俺の知りたいことは、既にこの世界にすべて用意されていました。
光速度がどの時間系からも相対的である理由も明らかですが、
それは大した意味を持ちません。
単純に「絶対的な有」が引き延ばされ、その最小単位としてのプランク距離に対して、
質量に影響を与えられた場が時間を引き延ばしているに過ぎない。
俺の「知った」ことは、非常に単純なものです。
そもそも、有限な世界にあって不確定性を解釈するのに時間は邪魔なものですから、
別の原理として考えるべきと俺は考えます。
今、過去、未来というものが実在する。
これが誤りです。
もっとシンプルに考える必要があると俺は思考します。
多幸感とかは脳の快楽物質の影響だよね?
時間の概念って何なんだろな
覚者的な体験談でよく「今」しかない、という言葉は聞くけど
過去未来もただ一点に圧縮されたような感覚なんだろか
> 単純に「絶対的な有」が引き延ばされ、その最小単位としてのプランク距離に対して、
> 質量に影響を与えられた場が時間を引き延ばしているに過ぎない。
脳がパーンてなったわ
いいなあ
俺が読みたいのはまさにこういうのだ
> もっとシンプルに考える必要があると俺は思考します。
時間に関するシンプルな思考について、まだ書けるなら、また是非
雰囲気でタコさんが理屈の通ったことをおっしゃってるのは感じるのですが超高度すぎてどれだけ凄いことを書いてもらっているかもわかりません、、笑
でもちょろっとでも意味がわかったら物凄い刺激があるんだろうなぁとは思いつつ
めげずにもう何度か読んではみたいと思います。
理解できてる人がうらやましい。
理解できる日が来る可能性は限りなく低そうですが、雰囲気だけでも味わいたいので是非書き進めてやってください 笑
ボームのホログラフィック宇宙観などを知ると、分かってくることがある
ボームが思考的思索的に見いだした宇宙観を、
1氏は逆方向から体験的に捉えて記述されたものに思えるのよ
「投影された宇宙」ホログラフィック・ユニヴァースへの招待
マイケル・タルボット著参照
1氏に勧めてるのじゃないからな
1氏の、体験のみを語るスタンスに感謝している
例えば臨タヒ体験者なども、空間や時間の無い(としか思えない)体験を
言葉にしようと四苦八苦する
考察でなく、その四苦八苦に真実が見える気がするから
そういうのを読むのが好きなんよ
このレスに関してのみ統合失調症の症状であるとする前提として書けば、
多幸感はアドレノクロムが関係しているのかも知れません。
これはメスカリンと似た作用を神経活動に及ぼします。
メスカリンの快感作用は目を閉じた状態で得る視覚情報、多幸感、神秘体験など、
不快感作用はタヒの予感、通常の状態に戻れない不安などで、
これは俺の症状と合致します。
統合失調症と一言で表現しても、その症状は症候群的に多彩です。
あるいは、統合失調症とは単一の疾患ではないのかも知れません。
俺は覚者でも何でもないのですが「時間」そのものを疑問視しています。
俺たちが言う時間とは、特定の距離を力や物質が伝達する速度です。
>>116
時間に関する最もシンプルな考え方は、
俺たちが「時間として感じているもの」を排除することだと考えています。
それは、俺たちが見ている空間、距離、速度、これらをすべて一旦無いことにして、
この世界を1次元に見立てると、よりシンプルになると俺は考えています。
例え話をします。
割り箸に輪ゴムをくくりつけて、輪ゴムの一部分にペンで印を付けます。
輪ゴムを伸ばし始めた時、ペンで印を付けた一点は比較的速く動きます。
しかし、輪ゴムが伸びるのに比例して、その動きは緩やかになります。
この輪ゴムは俺たちの世界です。
輪ゴム上に記した点は力の伝達速度です。
引き延ばされた世界では、伝達速度はゆっくりとなり、
縮められた世界では、伝達速度は速くなります。
光子は、この輪ゴムの外側を飛んでいるだけのように思えます。
仮に重力子なるものが存在するのなら、それも光子と同じく輪ゴムの外側でしょう。
俺には重力と言うか引力は、ただの不確定性のもつれに思えるのですが。
俺は自分の体験内容を、何かの学問と結びつけることを望みませんし、
別に頭が良いわけでもなく、どちらかと言うと勉強は得意ではありませんので、
評価していただけるのは有り難いのですが、高度なことは書いていないつもりなのですが。
あなたが何を求めているのか、要するに積み重ね的な理解ではなく、目的があるのなら、
それを明確にしてもらえるなら、そこについて俺の「知った」ことを書けるかも知れません。
>>118
ホログラフィック原理を俺は良く知らないのですが、
例えばブラックホールの事象の地平面の表面上に、吸い込まれた物質のすべての情報が含まれるとすれば、
それは「内容はなく、すべては境界である」という俺の「知った」ことと似ているようにも思えます。
自らの体験を外部に出すことは、とても難しいものです。
頭の中でイメージは浮かぶのですが、それを言葉にしようとした途端、
そのイメージは抽象的な「例」にするしか方法がないと気づきます。
数学は、そのイメージを「数という言語」に変換する手段もので、
数理物理学は連々と培われた数学という言語を用いて、世界を語ろうとしています。
俺には数学も物理学も分かりませんが、とても興味深い試みだと思います。
ホログラムはまず1本のレーザー光を分割器で2本に分割する
最初の光線を例えば実物のリンゴに当て、
そのリンゴからの反射光を、分割した2本めのレーザー光と衝突させる
すると水面に複数の小石が投げ込まれたときのような
同心円のモヤモヤした干渉パターンができる
これをフィルムに記録する
このフィルムにレーザー光を当てると、最初のリンゴのリアルな3D映像が浮かび上がる
で、このホログラフィック干渉パターンは、
元々フーリエというフランス人が発見した
フーリエ変換という数式を使って作り出された
この、なんでもかんでも干渉パターンに変換できるフーリエ変換が、
どうやら脳の機能に関係しているらしい
どうも脳は視覚や記憶をフーリエ数式を使って、フーリエ波形言語に変換しているらしいんよ
何がメインで知りたいか、と言われますと、やはり意識 自我の存在位置です。
タコさんが知った世界の成り立ちにおいて、その有り様を見たのは当然タコさんであり生命体であるタコさんの意識だと思うのですが、
もし仮にこの世界にタコさんしかりいわゆる生命ありきで存在すると思われる意識が存在していなくても、
やはりこの世界は存在しているのだと思われるのですが、(当然意識をもった我々の存在なくしてそれを認識する存在はないと思いますが)
この意識はただ単純に何かの利便性をもって発生したのか、もしくはこの世界の成り立ちに不可欠で存在している可能性もあるのか、ということです。
我々は意識や自我と感じるものを持っているつもりですが、ただ単純に生命とされる我々の存在があったとしても、コンピューターのプロムラム的に、無機質に、反射 反応を繰り返せば、原始的な走性などに全く意識が存在しないとすれば、
高度な走性のみでも生命活動は繰り広げられうると想像しているのですが、
なぜ我々は、我々が何をしているのかを見ているのか、高度な反応に意識が不可欠なものであったとしても、
いわゆる物理活動とは一線を画すと思しき自我などの存在があるのか、ということに興味 謎を感じています。
意識や自我の根源が個々所有のものでない可能性らしきことを以前書かれたと理解していますが、我々が我々であると認識している実体が人間や当然その他生命でないとすれば、意識の根源 我々の正体は何者なのでしょうか。
宇宙とホログラムのほうはボーム
ボームの説では、宇宙のすべて、現実のすべてがホログラフィックな虚像であり、
その奥にはさらに深い存在の秩序が隠されていて(内在秩序)、
そこからホログラフィックフィルムが3D映像を生み出すように
「包み込み」と「開示」を無限に繰り返しているという
プリブラムとボームが出会い、そこに生まれた新しい世界観はこうだ
「私たちの脳は、つきつめてしまえば他の次元…
時間と空間を超えた深いレベルに存在する秩序…から投影される波動を解釈し、
客観的現実なるものを数学的に構築しているのである
すなわち、脳はホログラフィックな宇宙に包み込まれたひとつのホログラムなのだ」
目の前には実は茫漠とした波動の大海が広がっていて、
脳がこのホログラフィックなモヤモヤを物質に変換している、という
まあ、そんなお話
統合を失った脳が、通常と違うものを1氏に与えたなら
何て言うかね、モヤモヤの非変換・直読み込みみたいな、
そういう状況が生まれたのか、などと想像してみる
もうやめます
教えていただいてありがとうございました。
俺の個人的な意見ですが、これはレーザー光という状態がもつれて、
その情報を弱く持っているだけのように思えます。
しかし、仮にリンゴの立体的な情報を持つということは、
あたかも、レーザー光の周波数が次元情報を持つようにも思えます。
仮にレーザー光を波動としての性質のみで捉えると、
これらの情報は大きさと角度で次元的な波動を保存していることになるように思えます。
もし、この波動を別の面、言い方の例えとして俯瞰できる次元に変換した場合、波動は境界面の波と同調(コピー)し、
そこに降り積もった情報を獲得の後、干渉波としての別の面の波として状態を表現しているなら、
それは面白い話だと思います。
以降は、俺の罹患した経験となり、このスレに与えた役割に反しますが、
俺は統合失調症の認知機能障害により、著しく記憶能力を障害された時、
記憶のメカニズムをありありと感じることがありました。
その体験では、脳は情報を俺たちが一般的に使う言語とは異なる、
抽象化された事柄へと分解し、脳の異なる部位に保存しているように思えるものでした。
脳の各所に記憶された情報が、レーザー光に保存されたリンゴの像に照らし合わせると、
脳細胞が持つ情報は波動的な情報であり、これを集合させたものが「記憶」なのかも知れない。
このように思考するものです。
けれども、脳に保存される情報とは、あなたの言う「モヤモヤとしたもの」ではないのかも知れません。
仮に脳に保存された情報を取り出したなら、それは干渉波のようにモヤモヤとしたものであるとしても、
それを映像や言葉として変換する機能が脳に備わっているとしたら、
脳とは、フーリエ変換を利用した量子コンピューターとも表現できるものです。
けれども、記憶とは比較的曖昧なものです。
図形にならないものも図形にし、図形を正確に記憶できないものが脳です。
脳とは俺たちが持つ一般的な言語とは異なる単位で言語をまとめているかも知れず、
逆に言えば脳がこれほど複雑に保存しなければならない情報群、それは自意識ですが、
これが果たして脳の機能だけで生み出されているものなのか。
不本意ながら、このように思えてしまうものです。
横レスですが北角さんのその関心、無茶苦茶分かります
何故にわしらはこんなにも知りたいのか
掴んでみたいのか
面白いねえ
俺の「知った」ことを言えば、自我とはツールに過ぎません。
自我と俺たちが呼ぶものは、生存に必要な本能的な自我、これに理性として理想的な自我、
この両者がせめぎ合う境界に存在しているものです。
これらは認知とは別の部分にあり、認知に対して2つの自我がせめぎ合い、自我を生み出しているように思えました。
つまり、自我とは決して自分のすべてではなく、自分を維持する道具に過ぎないと考えます。
意識、自我と呼ばれるものは脳が生み出す高度複雑化された反射と反応とも解釈できますが、
(そして、俺もこの意見に賛成しますが)
俺は一連の経験の中で、不気味な思考「肉体とは心によっても生み出されている」という体験をしました。
非常にエキセントリックですが、まず心があり、故に肉体を得た、という感覚、
それは、この世界において隠されているもの、宇宙が(この世界が)隠したがっている秘密とは、
根源的にはここにあるのではないか。
俺はこれを論ずることは得意ではありませんが、どうしても、このように思えてしまいます。
俺たちは時間(空間)という牢獄の中にあります。
けれども、しばしば俺たちは、あたかも時間とは存在していないかのような体験をします。
俺のケースでは、それは予知夢であったり、一般的に言われる超常現象と呼ばれるものです。
科学的なことしか信じないのが俺のスタンスですが、
あらゆる可能性を考え、様々な偶然を組み合わせても、どうしても残ってしまう「不思議」があるという事実。
それを考えると、俺はあまり言いたくない言葉を書き込まざるを得ません。
肉体とは入れ物であって、脳とは自意識を保存するように作られ、世界とは科学とは逆説的な面も存在する。
これを俺の体験と組み合わせると、俺たちとは「タヒ後の世界を生きている」という解釈に辿り着きます。
そして、なぜ、これほど俺たちは「知りたがりなのか」
この答えは、この世界が持つ役割が関係していると考えています。
色々と含みのある言い方だね
もっと詳しく訊いてみたいな
世界以前に歴然とした完璧に近い世界があったのではないか
タヒ後というのも面白いが、仮定の世界ともとれるよ
そんなところかな
に対し
最初にありき心が肉体を生成する、てのは夢の中の感覚に近いのかなぁ
含みがあると言うよりも、この時点で俺の体験内容をどう伝えるか、
試行錯誤しているというのが実際です。
俺も「仮定の世界」という考え方には一部同意しますが、仮にこの世界が仮定であるのなら、
体験した他の世界、いや「他の役割が与えられた世界」も仮定となってしまうため、その比喩は使っていません。
他の世界と聞くと多世界解釈や異世界というイメージを与えてしまうかも知れませんが、
もっとシンプルな考え方です。
体験自体は、どうしても伝えられないよね。
仮定の世界(安易な呼称で、すまない)は、
現世界について限定して使っているものだよ、
他の世界があるのは、認めている。
しかし、問題なのは現世界だと思うよ、
他の世界が、それに相互依存的に絡んでいるとしても。
どんな図形をイメージするのか、どういった感覚でそれを扱うのか…
普通の人が何かをイメージしたとしても、特にそのイメージから何かを感じることなんてない。
1さんはどうしてそのイメージから何かしらの感覚を認知することができるんだろう?
どうしてそこから瞑想ごっこ状態に没入できるようになるんだろう?
あなたの表現は的を射ています。
そして、「問題なのは現世界」という言葉は、俺の腑に落ちるものです。
俺の根本的な考え方として、この世界で生きている以上、ここで体験するすべて、
何もかもが、自分たちに与えられた実際である、ということは子供の頃から変わらないものです。
俺が統合失調症になったということ、怪我で左目が色盲になったということ。
先天的に両足首が湾曲しサポーター無しではすぐに脱臼してしまうという自身の体も、
すべては「この世界に有りて有る」すべてです。
俺は別に同情や努力を認めて欲しいわけではなく、それがすべてなのです。
よって、俺の考え方としては、そうした色々な出来事や自身の特徴やハンデ、
こういう色々なものを受け止めないで、自分にとって不必要なものを捨て去るということ。
その結果に得られるものが「空」や「悟り」と呼ばれる一連の精神活動であると言うのなら、
もっと、この世界のルールに則して、ちょっとだけ人より努力して生きることの方が、
見えてくるものが違うと思っています。
以前に俺は「悟りとはこの世界で得る必要ない」と書きました。
俺の考え方の上では、悟りや覚醒などは大した意味はないものです。
この世界の役割を自身に反映し体現する、俺の考えはここに帰結します。
少し熱く語ってしまいましたが、俺の考え方とは「特別なものなどない」
言い換えれば、全員が特別な存在である、ということです。
ただ集中するだけ、としか俺には表現できません。
ごめんなさい、書ける内容はこれだけです。
私の根本的な考え方に真実は定かではないが、
実際に起こった事は、私にとっては事実だ、という事です。
ですので、これを根幹に据えています。
まあ、人から訊いた事ですが、障害や理不尽、不条理といったものは
報われるとの事でしたよ、本物に云わせれば。
悟りについては、合気道とか弓道の達人が到達する
領域はすごいものだなあ、と思っているよ
話を少し前に戻すが、特別だからこそ、
この仮定の世界を創世したとは思わないかい
ですが、してみたい質問はたくさんありますので、どうかきかせてください。
たとえば、エキセントリックな物を見ている時の身体感覚とか…
いわゆる体外離脱のような感じで肉体的なリアリティは感じないんでしょうか?
もしくは肉体的な感覚はあって、瞼の裏に見えているんでしょうか。
体外離脱のような状態ならば、肉体からでたあとの自らの身体といったものはどういう感じですか?
あとエキセントリックな物を見ている時の意識と普段の意識の違いも聞きたい。
俺の根本的な考え方として、この世界のルールで生きるというものがあります。
確かに少し生きづらい世界ですが、そこには多くの幸せがあります。
そうした意味において
「この仮定の世界を創世したとは思わないかい」
とは、半分において同意します。
では、残りの半分は何かと言えば、そういう色々なものを自分の一部にする、
言い換えれば、自分で認めて、自分として受け入れるということです。
ちょっとしたハンデは、自分の努力を怠らない口実になると俺は考えています。
俺は、根本的に自身の体験を幻覚としてしか意味を見いだしていませんが、
体外離脱を体験したことがないので、そのリアリティと自身の体験を比較することができません。
しかし、「瞑想ごっこ」の体験の中では、俺は生々しい体感を持っています。
風の感触や大気の重さも感じますし、汗ばんだ自身の体も感じます。
俺の認識として、肉体を有した自身と、瞑想ごっこによって得た自身の認識は、
大きく変わらないものです。
そして、それらの体験をするためには「快楽への誘惑」を断る関係上、
それを体感している人物の感覚を鳥瞰しているイメージになります。
君の生き方は、どうやらなかなか立派なもののようだね
私は、別離感とでも言えば、いいのかな。
そんな感じのものを絶えず捉えられている。
まあ、楽器のチェロを弾く時は、すべてから解放されるのだけれどね。
あなたの書き込みを通して感じることは、
自分と関わった相手から、何かを得たいと思う気持ちです。
これは重要ですが、同時に自身の価値を他者に依存してしまっている。
これは、俺の過去の姿と同じです。
自分を表現できるもの、あなたはにとって、それはチェロなのかも知れません。
あなたは、チェロの声色によって自己の言葉を奏でています。
俺はシステムで、当初はその声色が決して自らを裏切らない、
このように思っていました。
しかし、システムを極限まで探求すると、そこには利用者の声がこだましています。
その声を聞き、利用者自身が気づけない声色を文章という次元に落ち着かせるのが
システムエンジニアの仕事です。
色はそれ以上を求められる職責にありますが、
根本的には、価値観に相違はないものです(人間関係は別ですが)。
あなたの声色は分かりますし、チェロという声色に乗せたいという気持ち、
これは同じクリエイターとして痛いほど気持ちが分かるものです。
そこに、あなたの声色を乗せて、その声色を第三者が心地よいと思った時、
クリエイターの本願とも言うべきものが、その声色にはあるのかも知れません。
でしゃばってしまいましたが、俺の声色に関する考え方は、このように認識です。
あなたの認識は声色です。
その声色をどう奏でるのか、そこに立派であるとか、優れているという認識は存在しません。
色はそれ以上を求められる職責にありますが、
↓
俺はそれ以上を求められる職責にありますが、
なるほど。寡聞にして訊いた事のない面白い話だ。
助言を、どうもです。
で、声色といえば、文章を読んでいても、
行間やニュアンスから感じ取っている気がするなあ。
それを判断基準にしてしまっているような
難しい話ですよ。
判断や評価は、あまり意味の無いものと俺は考えます。
あなたの現実での評価が、どのようなものかは分かりませんが、
他人の評価を大事にすべきと俺は考えます。
あなたの感じ方は俺とは異なります。
同様に、あなたに対する感じ方も色々な人で異なります。
けれども、あなたはあなたであるということを認めてくれる人。
あるいは、自分が自分であると認識できる瞬間は大事にすべきと思考します。
なぜなら、その時が本当の自分であるからです。
自己評価と第三者の評価の差異に苦しむのなら、笑ってしまえばいいと俺は思います。
「わりぃ、失敗しちった!」と、自らの失敗を笑い、相手が笑ってくれたのなら、それは失敗ではなく成長のチャンスです。
これは、自らが生み出したものではなく、周囲の環境が与えてくれるものです。
次に一回り成長した姿を見てもらえれば、その声色は届きます。
届く声色を奏でる、これはクリエイターの役割です。
詳しく答えてくれてありがとう
なんか妙な?流れになってしまったね。
何か能力でも持っている人に相談してるみたいな
いいんだけどね(笑
なんとなく私は私だと感じる瞬間が楽しかったりするね。
まあ、創造者としての自分というのは、好ましくなかったりする。
だってさ、責任を取らなくてはいけないじゃない
だから、あまり表に出したくない一面だね
その認識を尊重します。
これは俺の個人的な意見ですが、責任は後から付いてくるものです。
認識は人それぞれ、俺は責任があるちょっと負担がある方がスリリングで好きですが、
それは俺の個人的な意見に過ぎません。
よく、自称産まれる前からの記憶があるキッズが、
このママは優しそうだと思ったから僕は北斗星からママを選んで来たんだよぉなんてセリフを言ってたりしますが、あながちそれ系も完全否定できませんね。
輪廻転生前の記憶があってみたり、
肉体を持たない幽体の存在が言われてみたり。
否定も肯定もしないスタンスで、でもそれらの話をする人の言葉をそのままとれば、
現代科学で否定しきれないような実証は受け入れるのもまた実は中立な科学的な受けとめであるとも言えると思います。
こっちには現れていないようですが、クマこうさん、霊はいるんですよ!笑
タコさんの状態を読んで思ったのですが、ある状態から別の状態に変わった時、変わったからこそ制限というか条件が当然変化し、
それによって気付きを持ちやすい状態に置かれたのかと推察しました。
僕は元々赤緑色盲で、点々の数字が読めなかったりする程度なのですが、
僕は他者との見え方の違いを知りました。
タコさんはそれに加え、自身の見え方の前後を知られました。
特に感覚の事なのでより曖昧で抽象的ですが、色 というものが実際には存在しないことを肌で感じ、そこからの派生で様々な存在を絶対的なものでないことを体感的にさとる要素になったと推察します。
午後の部いってきます
また、視覚でいえば光の屈折云々で見えますが、カミオカンデなんたらで微小な質量が計測されたのニュートリノなんたらよく知りませんが、
それと似たような感じでかつ全く質量をもたない存在が、
同次元もしくは異次元と定義される場所で存在しているとすると、相対的にその存在からすれば触れられない我ら質量体の存在は無いと等しく、
それは実はある存在から見えないものは無いと等しことに似ていると思います。
我々人間の大半が有している認知機能で認識するものを有^_^
途中で何を言いたいのか忘れてしまいましたが、
とりあえずタコさんは柔軟な発想の持ち主だなぁ、
そう思ったということです。
1番存在が確からしいのって、次元諸々を超えても物質ではなく今現在私の意識の享受者 あくまで私のですが なのかもなぁと。
>>151さんの仰るとおりで、ただそんな難しい話でもなく、
例えばあなたが満月を見ている時には、あなたは「月が有る」というでしょうし、
新月で見えない時には「月が無い」というでしょう。
しかし、その間も、一般的な認識では月は存在しているはずです。
これと同じようなことで、あなたがいま現実に見ているそのものこそが有といえるのであり、
あなたがいま現実に見ていなくとも、別の者、別の角度から見れば、
それは有であるかもしれませんし、無であるかもしれません。
そしてまた、あなたが生まれることによって、
あなたにとっての現実が生まれ、無と有との区別を認識するに至ったわけです。
このように考えると、「無から有が生まれた」というのは、
若干の語弊があることは否めませんが、しかし理解はできることと思います。
たこ助さんの「完全な有」というものは、実際には有としてあるのかもしれませんが、
私にとってみればいまだその大部分が無であり、
ともすると本質的にも「完全な無」とも言ってしまえるのではないかと推測します。
少なくとも私の感覚で言えば、「完全な有」とは、
そこに幽霊もユニコーンも、どんなに突飛な物理法則も有として受け入れてしまうものです。
(意味が違っていればこのレスは見当違いですね)
「完全な有」と言ってしまえるのは、それを体験したたこ助さんだからかなとも思います。
かといって、「完全な無」というのも、
自分の現実的な意識さえも無の一部として存在している、という、
一般的におかしな話になってしまうので、
「完全な有無」というのが誠実かもしれません。
世界の役割については、俺の体験内容と共に書くこととなります。
しかし、俺は「役割」について不服があります。
>>149
主従関係と言うよりも、どちらを育てるのかという問題です。
この世界とは何か、この問題はここに帰結します。
>>150-152
霊の存在は未だに疑問です。
しかし、この世界が持つ「役割」を考える場合、これは自然なものです。
質量を持たないものはフォトンとグラビトンと言われていますが、
(そして、俺はグラビトンは間接的な引力作用と共に変化(崩壊)する情報が放出すると考えますが)
しつこいようですが、俺はこれらの出来事を「見せかけの出来事」と考えてます。
俺は怪我で片方の目が色盲ですが、その結果として得られる情報も、また見せかけのものです。
この世界とは、非常に単純なものであり、その「難しく感じられるもの」とは、この世界の常識を基礎としているためと思っています。
なお、俺は柔軟な考え方は持ちません。
この世界にある限り、この世界の制約を受けます。
しかし、この世界の制約外の出来事が物理現象として生じることはあると考えていて、
その場合に、この世界が持つ対称性が破れる場合があり、つじつま合わせは起こると考えます。
俺が言う「完全な有」とは、言い換えれば「選択されていない状態」とも表現できます。
すべての状態が混在しているもの、つまり「有る」も「無い」のすべてが選択されていないものですから、
言い方として「無」とも言えるかも知れません。
あなたの言いたいことは良く分かります。
「完全な有」という状態がすべての始まりとした場合、有るが無い、無いが有るという場合において、
それが「有る」と一方的に仮定することは確かに危険です。
では、なぜ俺が「完全な有」という表現を用いているのかと言えば、
「選択」という状態を生み出す前の、状態すら何も無いものを表現する場合において、
これを「無」と表現することに不都合があるためです。
無であるなら選択という状態は発生しません。
可換し売る「有」と「無」とは、あたかも表裏一体に見えますが、これらはただの状態であって、
これら、すべてが状態であるならば、「有が無を含む」として説明することが合理的です。
俺たちは影を見ているに過ぎないと、俺はかつて書きました。
俺の表現する「完全な有」あるいは「選択されていない状態」も影に過ぎません。
最初に配置された状態ですらないもの、これは言葉では表現できないものなのです。
その体験において、俺は不可思議な世界を体験しています。
俺の認識では、これらの体験は統合失調症の残遺症状だと考えていますが、
このスレではあえて想定せず、恥ずかしい思いでいっぱいですが、書き込んでいきたいと思います。
前スレで2回目の「瞑想ごっこ」で幸福感を得ずに向かった場所の話は書き込ませていだきましたが、
それ以降に、俺が羞恥心から書けなかった内容となります。
瞑想ごっこの際、目を閉じて集中力を高めていくと、まぶたの裏側に様々な図形や文字を浮かべることができます。
ここで、強い幸福感が収まるのを待っていると、風景が浮かんできます。
そこでは風の感触、大気の重さ、あるいは自らの重さも生々しく感じられ、
あたかも、本当に自分がそこに存在しているかのように錯覚しそうになります。
けれども、ここで自らで「これは幻覚に過ぎない」と自覚することは重要です。
この考え方は様々で、言い方の多様性はあると感じますが、俺は「統合失調症」を基礎として、
これらの体験に帰還不可能なほどの没頭を与えないようにしている、とも言えるかも知れません。
そこで見た光景は、空には非常に赤く巨大な太陽が浮かぶものでした。
地面は焦げ茶色で、そこには無数の黒い植物が生えています。
その向こう側には神殿と呼ぶにはのっぺりとした、例えるならギリシア時代の神殿から装飾を取り除いたような、
巨大な建物がありました。
草は複数が1つの根を持っているようで、その草を抜くと根がまるで動物のように動き、自ら歩行しようとするようでした。
これを抑え込み再び地面に埋めながら、白い肌の人々は草を抜き背中に背負ったカゴのようなものに放り込んでいきます。
俺もその作業を行います、けれども、その草は食物にしたり、エネルギー源として使うわけではありません。
この根を保存するために必要なものであり、その根に対して必要なものが人間たちの分泌物のようです。
この世界では人間は知性的な活動を行いながら、その植物の根を重要に考えているようでした。
俺のオカルトに詳しい友人は、この体験を聞いた時「ヴォイニッチ写本の世界のようだ」と言いました。
しかし、俺にはその認識は正しいものとは思えませんでした。
なぜなら、俺の体験した世界では植物はすべて黒い色をしており、
ヴォイニッチ写本の「同写本に多く描かれているものが植物」という認識に対して、
俺の体験した内容である「草を抜くことが役割」とする世界との共通点は「植物」という点のみです。
草を抜き、神殿のような場所へと持って行くと、そこには肌の黒い全裸の人々がおり、
その草を受け取って、まるで儀式的にドロドロに溶けた大鍋にそれを投じています。
そこからは、強烈な臭気を感じ、それが食物に適したものとは到底思えませんでした。
再び俺は神殿の外へと向かい、草を抜いていきます。
遠方にはうっすらと星が浮かび、それを貫くように無数の屋根が付いた建物。
例えるなら、日本の五重塔のさらに高いタワーが無数に建っていました。
何らかの理由で、この建物を作るために、逆に育たせないために草を抜いているように感じられました。
この世界では、植物こそが主要な生命であり、知性を持つ人間(のような姿の生命)は、それに従っているように俺には思えるものです。
ふと、背後に気配を感じ振り返ると、そこには胴体に複数ある人間と呼ぶには、あまりに異形な何者かがあり、
その瞬間にその光景は消えて、強い重圧を感じました。
それは、前のスレで書いた「宇宙の外側の外側」で感じた重圧と酷似していて、
違う点としては、当時に感じた息苦しさや苦しみ、悲しみは感じませんでした。
そこで、俺は自らを苦しみへと陥れた、その後に制止を振り切った「このようにして有る、音のような言葉」の音色を聞きました。
それを仮に言葉としたなら「それぞれに役割があります」のようなニュアンスだったと思います。
俺は考えると言うよりも、その音に対して波を放つような感覚で尋ねます。
「役割とは何か」しかし、それは音ともならず、言葉ともなりません。
それに対して「音」は答えるように鳴ります。
「役割を知るまで続く世界(宇宙?・ヴェーダーと聞こえました)です」のようなニュアンスです。
そして、はっきりとした音として「帰りなさい」と聞こえ、ふと気づくと俺はまぶたの裏側に戻っていました。
目を開くと辺りは真っ暗になっていて、俺の姿を見た人は不気味だっただろうな、
と思いながら家に戻りました。
統合失調症の幻覚と言うには違和感がありましたが、これを体験として前スレに書き込む必要はないと思えるもので、
しかし、この体験によって得た「役割」が気になりました。
この後の体験は、しばらくは様々な世界の光景を見て、そこで気配を感じ、
最後には「帰りなさい」と言われる。
このような体験ばかりをしていました。
堅い肌を持った人物として体験したこともあれば、ただ地面から生えている巨大な植物であったこともありました。
これらの体験は各々は関連性はなく、その瞑想ごっこの後は非常に疲労感が残るものでした。
しかし、これらの体験は、あたかも段階的に俺に「役割」を教えてくれるかのように思えるもので、
言い方が難しいのですが、「次にどのような体験をするのだろう」という期待感と言うよりも、
見届けたいという思いが伴いました。
しかし、これらの体験から得た認識は絶望感でした。
それぞれの体験内容は、俺が平時に生きる世界観からすれば単調で、変化に乏しいものであり、
例えば自らが自律的な判断によって行動できる世界はありませんでした。
草を抜く、建物を建てる、ただ生えている。
これらの世界では役割は明確でしたが、それ以外には生命活動を行う必要最低限の行動のみがあり、
それが普通であるという認識のみで、ただ時間だけが過ぎていくだけのものだったのです。
あるいは、単純に自分の認知機能の低下が、幻覚を単調にしているのかも知れない。
このように思いながら、公園で、あるいは昼休みの会議室や自室で、「瞑想ごっこ」を繰り返すだけの日々が続きました。
反面、これらの体験を経る中で、それまで苦しんでいた「思考力の低下」や「一つ一つの出来事へのこだわり」は消失し、
統合失調症の残遺症状は、驚くほど消失していきました。
やがて、かつて自らが持っていた「複数のことを同時に考えられる」という能力も復活していき、
それに伴って「瞑想ごっこ」の体験も、同時に複数の内容を記憶するようになりました。
多くの体験世界で、役割は明確でした。
しかし、それはひどく窮屈に思え、ある日ある世界の光景を見ました。
そこでは、特に役割はありませんでした。
ただ生きて、自分の自由に行動し、ただし何もすることがありません。
働くことも、学ぶこともなく、ただ分かっていることは「この世界が持つ役割」。
その世界の役割は、「役割を知りながら、自らが役割を探すこと」でした。
この体験は未だかつて無く窮屈に思え、異常なほどの負担を感じられると同時に、
役割を知っているということは、
目的(向かうべき方向)、趣旨(元となる考え方)、意味(進む理由)すら奪われ、
探究すら許されず、単純な悲しみがあるということを知りました。
その体験は体感として数日でしたが、結局そこで俺は「役割」に触れることはできず、
体のひどい疲労感から、瞑想ごっこから自ら抜け出してしまいました。
単調な日々、ただ仕事や学校へ行き、仕事や勉強をして寝るだけの毎日。
けれども、これらの体験の内容は毎日が定められておらず、常に選択の連続です。
選択は負担ですが、例えばタイミングを見計らったり、自分の意思などによって、
大きく変化することは多くあります。
「役割」が明瞭すぎる世界において、進むべき方向は大きな必要性を持ちません。
「役割」を見つけることが役割である世界において、人は生きることは困難です。
俺たちが住む世界も似ている部分があります。
学校において、ある種の教育方針では進むべき方向は制限されます。
仕事において、ある種の経営方針では進むべき方向は制限されてしまいます。
けれども、そこから逃れる方法は用意されているものです。
決断が必要ですが、選択は自らできるものです。
あるいは、自分が縛られていると感じるものは自らの決断ではなく、環境であることがしばしばです。
これは、言い換えればいくつかの言葉で表現できます。
ニーズ、職種、時間帯、好きなこと、そして嫌いなこと。
「好きなことが出来る世界」とは、嫌なことがある世界と一対です。
しかし、同時に「好きなこと」「嫌いなこと」とは選択の結果であり、自らの役割によって生じるものです。
「好きなこと」「嫌いなこと」がない世界。
完全な自由な世界、果たしてこれは自由なのでしょうか。
何も知らなければ自由なのかも知れません。
しかし、自由であることを自覚した瞬間に、さらなる自由を求めてしまいます。
その探究すらない自由、選択の無い世界、それは単純な「役割を求められ、役割を与えられない」世界です。
これは、苦しい世界です。
目的もなく歩き続ける砂漠、そこでは喉が渇くこともなく、空腹を感じることもありません。
あるいは、歩く必要すらないのかも知れません。
このように思うようになりました。
役割とは自らも選択できるものであり、自由に決定できるものの、
そこには、必ずルールが課せられるものであり、
ルールを守りながら、まるで「ゲーム」のように一つ一つの課題をクリアしていくということ。
この「自由ではない不自由」、逆に言えば「不自由にある自由」、
それが、世界の役割であると同時に、この「自由」に対して意味を与えること。
役割からも自由であるからこそ、自らの、そして第三者の自由も、
あるいは、この世界そのものすら認めて、自分が自由であることを認めるということ。
そこに与えられたルールの上で行っているゲームが、この世界なのではないか。
「意味」も「目的」も「趣旨」も、そして「役割」からも自らが選択できる世界、
時には制限すらをも超えて、始まりと終わりの狭間に「生きている」ということを作り出す場所。
それは、とても奇妙な感覚でしたが、非常に腑に落ちるものでした。
ひどく納得した感覚を覚えていましたが、どうしても分からないことがありました。
なぜ、この世界とは「有る」のでしょうか。
そして、「役割」とはどうして生まれるのでしょうか。
以前のレスに俺は「完全な有」という言葉を書きました。
これは果たして、俺たちが認識している宇宙、あるいは世界の始まりなのであって、
例えば「生命」と形容される存在、これらのすべての始まりなのでしょうか。
俺の認識では、「完全な有」の前と後、あるいは今にも、そして完全な有そのものとして、
「形容できない調和」と「選択を得た不調和」があると認識しています。
これは1つのサイクルであるように思えましたが、サイクルとは何かしらの媒体を要します。
この「媒体」について、よりエキセントリックな内容となりますが、書かせていただきたいと思います。
奇妙な植物世界での夢か幻覚か分からない体験談をスレ立ててしてた人に
その手稿の画像見せたら何故か解読出来た、って所からだろうな
ヴェーダー、ってサンスクリット語かな?
それだと知識、知恵、知る手段とかいうニュアンスになるけど。
容貌的にも仏教インド哲学辺りの含蓄を持つ存在なんかねえ
ヴォイニッチ写本は当然ながら俺には読めませんが、
勝手に考察することを許してもらえるのなら、
同じ文字が繰り返し出現する様子や、文字の上に○が配置されている様子から、
1つの単語(のように見える文字集合)が、俺たちが言う所の1文字のようにも思えます。
つまり、コンピューターの文字コードのようなもので、
その1文字に対して1つの意味が割り当てられた、例えるなら象形文字をヴォイニッチ進数コードで記述したものなら、
同じ文字が繰り返し出現することも不思議ではないのかな、と思考しました。
サンスクリット語に俺は明るくないので分かりませんが、
ヴェーダーという発音は、音を言葉にした場合の聞こえ方の問題だと考えています。
>>169
俺は多世界解釈や異世界については、どちらかと言うと否定的な考え方を持っています。
では、これらの「世界」は何だったのか。
それは、「媒体」について書く際に表現できると思います。
生命 人間としてともすれば認知する必要の無さそうな世界を、なぜ認知できる人とできない人がいるんだろう。
内容が内容だけに相当な腕の編集者が必要だろうが
統合失調の専門家による病理・治療解説と組み合わせて出たら面白い本になるだろうなあ
WwwwWwwwWwww
俺の認識では、これらの体験は病気が生み出した幻覚であると考えますが、
あえて、この認識をせずに考えた場合、1つ1つの体験には明確な目的がありました。
非常にエキセントリックな表現ですが、「体験した」のではなく「求めたら答えてくれた」と言えるかも知れません。
「学ぶ」のではなく「分かる」という感覚は何とも代替する言い方がないので、伝えきれないものです。
などと書くと、あたかもスピリチュアルっぽい感じになってしまうのですが。
>>172-173
自身の体験を書籍にする価値はないと考えています。
ただ、そこから得た様々な知見を面白いと感じていることは事実ですので、
体験ではなく「知ったこと」を背景としたプチ小説のようなものを書き始めています。
文才がないのですが・・・
おお、わかるわかる
俺も昔さまざまな知が一気に流れ込んだとき
小説みたいなものが脳内でまとまった
書かずにおれなかった
そして文才の壁に当たって砕けた
1氏に聞きたいことはたくさんあるが、質問すらなかなかまとまらんよ
俺と同じ体験をしていた人がいて、安心しました。
自分の場合、脳の許容量を遙かに超える「世界系のすべて」が流れ込み、
パンクしてしまったと感じられる部分もあるのですが、
あれほどの強烈な幸福感と苦痛を、どうやって受け流すことが出来たのか、
俺の体験は中途半端なのだと、つくづく思うところです。
文才は無くとも、手軽に読める小説は友人から借りて読んで法則性は見つけたので、
(それが正しいかどうかは別にして)複数人と、プチ小説を書き始めています。
リンク先を拝見しました。
俺は「世界」とは役割に応じて無数にあるものと感じていますが、
21として限定する考え方は否定しません。
ただ、俺の感じた内容として、物理次元とリンク先の覚者は表現していますが、
俺とは考え方がやや異なるように思います。
(これは、覚者の考え方を否定するものではありません)
俺の感じたことは、他の世界と同様に、俺たちが暮らす世界も特別ではないということです。
以前のレスで世界の役割について書きましたが、
好きなことが出来る世界に制限がないことは危険なことです。
俺たちの世界もまたタヒ後の世界のようなものである、
俺の認識は(俺のた意見が妄想であることを自覚している上で)変わりません。
.netのヴォイニッチスレに居た俺ワクテカしすぎ
それはおいといて>>1さんに聞いてみたい
俺は俺ら自律経験する魂というものは、
スキャナーの機械の中の読み取り点のようなものだと思っている
いわゆる大元のエネルギーから一時的に千切れて(生まれて)点となり、
できるだけ大元から長く離れるために点の波長を下げるシステムを創り出した(肉体やカルマのシステム)
そうして最大限に経験を得て、経験を統合する知をネットワークしながら下げた波長を上げて戻して大元に還る
この下げるための世界の役割、上げるための世界の役割、
それが1氏のいう「選択」や「自由」の目的に当たると思うのだがどうでしょう
またこの上げてゆく段階を下から見たときに何十かの段階があるように「見える」
それから統合失調とは内的な本質(魂)と肉体の脳との波長の、
強いラグのようなものかなと想像します
瞑想ごっことは、両者のラグを再度同調させる過程だったのではないかなと
この世界は物理法則の上に成り立っています。
大元となる霊性を持った何かから切り離された「個」を維持するため、
そのエネルギーを低い状態で保存しようとする、
この考え方は面白いと考えます。
自身の体験内容に則して表現するとしたら、
これは、この世界に生まれた大多数の人々が前世の記憶を持たないことや、
一般的にはテレパシーと呼ばれる行為を行えないこと、
これらの理由とも言えるものと、俺は感じています。
確かに生命とは、巨大なエネルギーの末端であると考えることは出来ると思いますが、
そのエネルギーが、俺たちの言う巨大さを持つかは分かりません。
個人的に輪廻転生は肯定しづらいと考えています。
生命のサイクルとも言うべきものを体験したことは事実ですが、
そこには生まれ変わりと言うよりも、世界を選択して生まれてくるような、
そのようなシステムの存在を感じました。
「大元」と言う帰るべき場所(あるいは領域)があるとして、そこに至る過程とは、
「完全な有」へと至る、自然なサイクルなのかも知れません。
俺たちはそのサイクルの一部分を、時空によって閉じられた世界から見ているに過ぎない、
これが、俺の感想となります。
瞑想ごっこを、仮にこのサイクルと照らし合わせて考えることを許してもらえるなら、
そこで見た様々な光景、体験などは、脳が得ている情報以外のもの、
時空という箱庭の外側にあるもの、これを接したものではないか。
・・・と、スピリチュアルっぽく書けば、このようにも解釈できるものです。
なお、統合失調症は脳機能の病気ですので、これは「この世界に存在する」状態と関係があるものです。
脳に経験の蓄積がないから、本来の記憶(のようなもの)を覚えていない、
肉体という箱庭を持つがために、テレパシーのようなコミュニケーションを容易に扱えない、
こう考えると、この世界に存在するということは、本来の自分を忘れている状態なのかも知れません。
レスありがとう
俺もだいたい同感です
しかし、俺が不思議に思うところとして、>>180で書いた「記憶のようなもの」、
これが、どのように保存されているのか、ということです。
体験としては、その「記憶のようなもの」は一種の次元方向の同時性による蓄積のように思えましたが、
いくら、この世界の物理法則が作用しない世界と言っても、それを保存しているメカニズムはあるはずです。
これらの一種の答えとして、俺は「霊」と俺たちが呼ぶ存在、いや波としての領域の話を書かなくてはなりません。
それは、たとえ話として「世界の外側で机を蹴ると、俺たちの世界で何が起こるのか」このようなことを言っているようなものです。
これは大変にエキセントリックなものです。
心理の現場では、突然に、忘れていた体験の記憶が
「噴き出すように溢れ」ることがザラにあった
自分自身も、また周囲のクライアントさんもです
記憶・感情・肉体的リバランス・精神的リバランスには
明らかに何らかのシステムがあるように感じられた
後年、そのあたりの答えはバーバラ・アン・ブレナン女史の著書からある程度得られました
なりゆきで、前世回帰を趣旨とした催眠も受けた
輪廻転生があるかいなかはさておき、そこでも記憶の不思議を確かに体験した
1氏の記憶に関する情報は是非拝読したいですね
統合失調症ではカウンセリングが禁忌ですので、メンタルブロック解消などの現場での体験とは、
少し毛色が違うため、参考にならないかも知れませんが、記憶に関する感想を書かせていただきます。
俺の体験では、まず「受容」の存在を強く感じました。
外部からの、あるいは内因的な情報を脳が受け取ると、一時保存領域な場所に、その情報を格納します。
この領域で、その情報を、さらに細かな情報へと分解します。
細かな情報は俺たちが普段感じている様々な事象よりも、もっと抽象的なものです。
例えば「太陽」であれば、「上」「輝く」「明るい」などに分解され、その分解された情報に対して、
認知が記憶情報と照合します。
統合失調症の場合、この認知が正常に働かず、記憶情報を誤って取り出すか、取り出せずにロストしてしまうように思え、
結果として誤った形で受容された情報群が、脳に格納されると感じられるものでした。
脳に記憶される情報は、俺たちの言葉とは異なる言語(のようなもの)へ変換され、
様々な部位に、脳の基準に基づいて保存される様子が、ありありと感じられる体験は、
あるいは、統合失調症による妄想であった可能性を否定しません。
俺の感想から言えば、ごく自然のことです。
バッテリーは電気という状態を、平たく言えば物質の状態として保存しています。
あるいは、人間の体も活動に必要なエネルギーを、別の状態として保存しています。
脳に記憶される情報は、デジタル情報ではないのですから、そのままの状態としては保存できません。
そして、記憶を取り出し、「これは何か」を問いかけて意味変換するものが認知であり、
この認知が幾重にも積み重なったものが自我であると思えました。
しかし、自我にも「生きることに執着する自我」と「理想的な自我」があり、このせめぎ合う場所に、
俺たちの自我は生まれているとも感じられました。
これを、かなり強調して言うなら、俺たちの自我は見せかけの幻である、とも表現できるかも知れませんが、
俺は、この表現はあまり得意ではありません。
メンタルブロックは俺も体験がありますが、俺の個人的な感想を述べることを許してもらえるなら、
おそらく認知の、あなたが言う「システム」に動作不良が生じているとも解釈できると考えています。
脳は、あるいは、体験したすべての情報を保存しているのかも知れません。
けれども、人間には「忘れる」という重要な仕組みが欠かせません。
認知が記憶に辿り着くためのシステムの内容までは俺には分かりませんでしたが、
「認知」は記憶の呼び出しのトリガーとして動作するものであるのではいか、
このように俺には思えました。
これは、偽の記憶を生み出したり、声ではない情報を声として聞き、
自分との因果性のない事象にも因果性を感じてしまうなどの機能不良を生み出すもののように思えます。
そして、もしかしたらメンタルブロックにも言えることかも知れませんが、
認知のシステムに何かしらの不具合がある場合において、
それが継続することで、記憶もまた歪んでしまうと感じます。
統合失調症における認知機能障害が生み出す妄想とは、脳に保存された誤った情報と言えるものです。
これが降り積もり、やがて人格荒廃という重篤な状態へ陥るケースもあります。
人間にとって、実は自我や記憶は、決して重要ではないとは言いませんが、すべてではなく、
「認知」こそが、俺たちの心というものを生み出しているのかも知れません。
以上が、俺の体験した「記憶」に関する内容となります。
そうか、統合失調症には認知の機能障害があるから、
傾聴やカウンセリングでは認知の異常を鏡返しで増幅してしまうのか…
なるほど難しいんだな
認知は記憶を“取り出す”際の通路・媒介・フィルタ的機能と同時に、
記憶を“取り入れる”際の通路にもなるから、双方向で悪化してゆく、と
1氏が感じた「受容」というのは、つまり、五感を通じたあらゆる情報が
フィルタされることなく記憶に取り込まれる感覚ですかね
フィルタは認知のほうにあると
その受容は脳そのものにあると感じましたか
五感を通じたあらゆる情報が翻訳され
収められるその場所は、脳であると感じますか
いやはや、大変興味深いです
手に汗握る(笑)
カウンセリングは統合失調症において、妄想や幻覚を助長する可能性がありますが、
これは、服薬アドヒアランスも同様だと考えています。
服薬がプラセボであるかか別にして、有意に作用している場合において、
血液脳関門を突破した物質が作用するものが、
グリア細胞まで作用するかは、現場での実験では検証できないものです。
しかし、これらを俺たちの世界へ変換した場合において、
これらを通路、媒介、フィルタと呼ぶことが正しいのか、議論はここに帰結します。
それらに起因したもの、これはあるいはホムンクルスとしての体性感覚かも知れませんが、
または、プロテオームとしての作用なのかも知れません。
俺はここは明るくなく、詳細を述べることは困難です。
よって回答は、以下の2文に集約されます。
>その受容は脳そのものにあると感じましたか
正常に答えるなら「はい」です。
けれど、それ意外の解釈があることを否定しません。
>収められるその場所は、脳であると感じますか
脳への情報保存として「はい」と答えたいところですが、俺の解釈は大変にエキセントリックなものです。
ニューロンだったかなんかは忘れたけど、何かしら記憶を有する神経系もあるぽいんだって
じゃあ肝臓はどうかとかはやってなかったけど、
メインの箱は脳としても、案外その生命体を構成してる物質がトータルで意識とか持ってて、
脳が担ってる機能や仕組みはそこまで重要なもんじゃなく、
枠組みと媒体レベルで、高度な人間ぽい思考の発生源は脳みそ構造以外の場所で行われてるとか。
一個前の意識とかな話で、脳 心臓 その他臓器 はたまた血液とかまで飛躍させたら、
その延長にありとあらゆる物質とか、例えば石にも
万物に命あるよ的なネイティヴアメリカン的な
そーゆーやつ。
あると思います。
吟じました。
俺たちとかさっき出てきた石くんとか
全部仮の、いやかりそめの姿で
そもそもはまことしやかにささやかれ続けてる霊とかそーゆー存在こそ実質で、みたいな
なんかそう結びつけたらそれっぽく感じられたりして。
秋だしちょいアンニュイな感じで。
なら俺たちも当然そもそもは霊体とかそーゆーキャラが根源なはずで
だから究極的には俺たち自身 未見の我はそんなこととか諸々知ってるわけで
でもあえて忘れててとか知らない程で、とか。
宗教ぽい言われ方だとこの世界に降りてきて修行してるんだよ的な事柄とか。
あると思います。
脳以外の臓器に記憶が保存されているのか、その件には俺は疑問があります。
確かに血流の性質や、そこで生成されるアミノ酸やタンパク質などの人体を構成する物質、
これらに個性的な特徴があり、これが脳の動作に作用する可能性は否定しませんが、
完全な「記憶」を保存する機能は脳のみが持つものです。
しかし、臓器移植の場合、臓器と共にDNAも移植されることとなり、
その中には脳に関係するDNAも含まれています。
脳の大脳新皮質は成人後も増加が起こるため、この新規生成される脳細胞に対して、
移植されたDNAが影響している可能性はあると、個人的には考えています。
つまり、臓器そのものに記憶が宿っているわけではなく、
DNAに保存されているなら、それが「種としての記憶」というマクロなスケールではなく、
「個としての記憶」というミクロなスケールも保存されているとすれば、
それは、大変に興味深いものです。
そして、思う所では、臓器移植によって記憶が移動したかのような出来事は、
記憶ではなく認知なのではないか、このように思えます。
なぜなら、仮に脳以外にも記憶が保存されていると仮定すると、その記憶にアクセス手段は脳以外にはありません。
しかし、DNAの一部が仮に脳細胞の新生に作用するなら、
記憶の保存と言う現象をスキップして、脳細胞が生み出す認知機能を原因として想定することができ、
加えて、科学的に立証できない事実として「記憶の移動の実例がある」という事象に対して、
事実としての「脳以外に記憶にアクセスする機能はない」という事象をバイパスすることができると考えています。
霊については俺は肯定しづらいスタンスですが、
体験によって知った内容は、俺たちは肉体を持つが故に制限されているということ、
言うなれば、肉体を持つという事実に対して、その事実の中で精神が活動している、というものでした。
しかし、「この世は修行の場」とは、俺は解釈していません。
このため、もう一度書き直させてください。
カウンセリングは統合失調症において、妄想や幻聴を肯定する可能性がありますが、
そのリスクは、同病における服薬アドヒアランス、インフォームドコンセントにも内在します。
これが「統合失調症の治療は投薬以外にない」という事実の理由であり、
いかに、罹患者を診察のセットアップ段階で導くことができるのかが、重要なポイントとなると考えています。
服薬がプラセボでないことを前提として、疾患に有意に作用している場合において、
血液脳関門を突破した成分が、脳細胞、神経伝達物質、あるいはグリア細胞にも作用しているのか、
それは、現場では罹患者の回復でしか間接的に見ることはできません。
このように、特定の出来事に対して、何かしらの結果が得られる環境は、
あなたの言う「記憶を取り出す通路・媒介・フィルタ機能」にも言えると考えています。
これは、俺たちが「生きている世界」にも変換することができるもので、
原因があり、結果がアウトプットされた過程に対しては、研究が必要です。
つまり、認知をフィルタとして、通路を脳細胞として、媒介を神経伝達物質として仮定した場合、
「脳と言う世界」での振る舞いとしては想定ができるものですが、
それは、果たして脳の「認知」がすべてなのか、という議論に帰結します。
感覚と総称されるホムンクルス(体性感覚)は、その内訳を明らかにしてくれません。
そして、この感覚を生み出すタンパク質の振る舞いを意味するプロテオームによる作用は、隠されています。
これらが複雑に絡み合ったものが、精神活動のようにも思えますが、
俺にはこれ以上の知識がないため、詳細を考察することは困難です。
よって、回答は、以下の2文となります。
>その受容は脳そのものにあると感じましたか
正常に答えるなら「はい」です。
けれども、脳以外の場所にも「記憶に対する間接的な受容はある」と考えています。
>収められるその場所は、脳であると感じますか
脳への情報保存として「はい」です。
あるいはDNAの作用によっても認知は変化し、結果として記憶も変化すると思います。
しかし、自身の体験に基づく解釈としては、大変にエキセントリックな考え方があることも実際です。
まぁやってた内容を丸のみで信じれば、の話ですけど、、。
ヒマはないだろうけど、心臓移植 記憶とかって検索したら多分そのテレビの話題が出るはずです。
俺はそうやって今までスカイフィッシュとか信じちゃってた派なんだけどね 笑
ハエだったっていう、、笑
そのテレビ番組を俺は見ていないのですが、仮に記憶と呼ばれるものが、
脳以外の部位にも保存されているとしたら、それは興味深いと思います。
記憶転移が果たして事実であるのかは別にして、DNAや細胞に記憶が保存されているとしたら、
俺たちが「記憶」と呼ぶものは、あるいは肉体全体に宿っているものと言えるのかも知れません。
俺が瞑想ごっこの中で知ったことの内、自己が認識している「自分」とは、
本当の自分自身のごく一部である、というものがありました。
エキセントリックですが、宇宙と呼ばれるこの世界の外側に「すべての自分自身」があるならば、
肉体に宿る記憶とは、この世界の内側だけで持っているものです。
仮に俺たちを眺めている「すべての自分自身」にも記憶が伝達されているなら、
記憶とは脳に宿るものにとどまらず、さらに広義のものであるのかも知れません。
> エキセントリックですが、宇宙と呼ばれるこの世界の外側に「すべての自分自身」があるならば、
> 肉体に宿る記憶とは、この世界の内側だけで持っているものです。
>
> 仮に俺たちを眺めている「すべての自分自身」にも記憶が伝達されているなら、
> 記憶とは脳に宿るものにとどまらず、さらに広義のものであるのかも知れません。
それに関して、個人的な体験だけれども面白いことがあったので
書いてみることを許して頂きたい
他の人の意見を、ぜひお聞きたいです。
しかし、俺は自らの体験群は「統合失調症である」ことを前提としているため、
あるいは、肯定的な感想をお返しできるとは限らないのですが・・・
俺、仕事の内容が大きく変わったのが約1年前
大体把握して慣れたのが変わって3か月ほど経った頃
その更に1か月後、突然無意識の奥から「把握した」という声が上がってきた
実感として、自分の声とは思えなかった
どうやら、細かな仕事のルールや段取り、様々な手順の趣旨が、無意識まで入り込んだらしい
その日から、奇妙な言い方だが殆ど無意識任せで仕事ができるようになった
ミスには必ず無意識からの警告があるし、
段取りも手順も思考を止めて無意識から受け取るようにしている
しかも極めて正確、自分だけでなく客先の他者の動きまでわかるようで
遠回りに見えてタイミングバッチリ、といった奇跡的な動きが当たり前に毎日ある
体感として、働いているのは俺ではない
俺はただの3次元空間内の「目」である
だから上でスキャナの読み取り点と書いた
だが無意識の側、つまり自己意識の外側の自分(の意識に近いあたり)に
意図が浸透するには、時間がかかるということが今回分かった
外側の自分はリアルタイムでスキャンした経験の記憶を「見て」いる
もっと変な言い方をすれば、俺を通じて「生きたい」と思っている
>>197を言い替えると、まず普段の自己意識があり、
その奥に、そこから繋がったより大きな意識があると俺は感じる
俺は常に、自分の意思で思考を止めて、より大きな意識と深く繋がった在り方で生活しているが
仕事の内容が変わって新しく処理しなくてはならない事が増えたとき、
最初のうちは、より大きな意識は様子見をしているようだった
表面意識の思考が仕事の内容を把握したのち、1か月経って
より大きな意識が「なるほど、こうしたいのか、分かった、理解した、任せろ」と動き出した感覚があった
こうした空白ののちの再接触は初めてだったので驚いた
この体験が、記憶がより深い大きな意識、外側の存在にも
オンタイムで流れ込んでいる明確な証明にはならないが、
俺自身は「おもしれーなおい、この仕組みもっと知りたいわ」 と思いますた
あーゆー昔でいう木曜スペシャルみたいなのを見てると思うとなんか親近感わきます 笑
見た上でのご意見となると僕も何となくより納得というか安心感があります 笑
そして盲信でも完全否定でもないスタンスはさすがです。
確かに僕らが僕らを僕らとして扱ってる 認識してる部分って、個体としてもかなり限定的で、さらにきっと本当の 我々 という定義は、
我々をいわゆる人たらしめている要素でいうと圧倒的に不足しているんでしょうねぇ
それは日常生活を営む上では必要な選択なんでしょうけど、
心にゆとりや深い我を知りたいとか欲した時にはまずそこをとっぱらって考えていくという方向は理解できる気がします。
個であり集合体であり実は一つであり、みたいな
確実だという根拠は何もないですが、タヒを迎えた時とか何かおおきな状態の変化があった時には
遅かれ早かれそこに辿りつくというか必然的に戻っていくんでしょうけど。
でもきっとタコさんしかり超微力ながらそうゆうことを知りたいとしている僕がいる時点で、今の状態でそこを知ろうとすることにも何かしら意味があったりするんでしょうか
海馬が破壊された人が、記憶力を喪失してしまった、という話し、有名でしょ?
海馬がある程度復活して(海馬の細胞は、脳細胞にしては珍しく再生する)、
記憶力が復活した例もある。
ストレスを受けると、海馬は縮小する。
そうすると、記憶力も落ちる。
臓器に記憶が刻まれると主張している人々は、自分に都合のいい情報だけを受け入れて、
こんな有名で決定的な話を完全に無視してしまっている。
移植手術をした結果、ドナーの記憶を継承したとか、
その手の話は沢山あるけど、
そのお話が事実であるという検証は、誰が、どんな形で行ったものなの?
河馬と書いてカバ。だから何?そう聞かれても困るけど、、、そんな昼下がり。
確かに色んな学者が研究して海馬に記憶をってのはあるんだろうけど、
インプットとかアウトプットのメインを海馬がやってるとして、また、情報の貯蔵もしかり《よく知らないから仮にね》
だとして、
他の比較的高度な役を持つ臓器が神経やらと合わせて何かしらの記憶に関する情報を大なり小なり有している可能性は、
オカルト要素大好きな僕としては残して沖田い、的な。
記憶をメインで海馬が司っていることはきっと遭難だろうとしても、
その他の器官が全く記憶に繋がる役割を全く持っていないとはイコールにできないんではないだろうか、
そんなこと考えてます。
とりあえずレンジが壊れて加熱否十分な冷食を食べた僕の胃が心配です。
おわり。
このスレは、この話題を議論する場所ではありません。
俺は、「そういう考え方もあって面白いね」というスタンスです。
心臓移植をしても、神経は繋がない。
だから、移植心は緊張してもドキドキしない。
興奮してもドキドキしない。
つまり、心と完全に切り離されているってこと。
事象の正体を見極めようという考察の中に妄想を混ぜると、
永遠に答えに辿り着くことは出来なくなるよ。
自分は大きな意識の端末であるという感覚は、興味深いと考えています。
仮に意識(我々の個としての意識)に対して、その「大きな意識」が干渉するなら、
本質的に、これらの意識は同一のものと俺には思えます。
自身の状態を客観視している状態は、俺も体験の中で経験しました。
そして、宇宙の外側で見た12の構造を見た時に、俺は「これらの役割を知りたい」と考えました。
これらが、果たして事実であるのかの議論は、このスレの趣旨と反しますので避けますが、
自分たちが巨大なサイクルの一部である、とする認識には、
あなたの体験と、俺の体験に共通するものがある、と個人的には考えています。
>>199
個としての俺たちは、もっと源泉的な存在の端末とする考え方は面白いです。
しかし、しばしば「脳とは受信機である」という表現がありますが、
俺はその考え方は肯定しづらいスタンスです。
俺たちは現在の世界の制限を受けている、これが俺の感想です。
しかし、制限を受けているということは、何かを与えられていることと同義です。
将来的に、俺たちの肉体は滅びますが、その先に何があるのか。
俺が体験した内容は、大変にエキセントリックながら、それにも触れる内容となります。
この世界をなぜ「タヒ後の世界」と表現したのかなどは、
その話で詳しく書かせていただくことができると考えています。
>>203
あなたの言いたいことは分かりますが、
このスレでは、特定の認識間違いや、事実と合理性の紐付けを行うことを目的としていません。
加えて、事象の正体が隠されている状態とは、それが研究課題であることを示していると考えます。
俺は臓器移植による記憶の転移については懐疑的なスタンスですが、
これは、単純にこのスレにおける「楽しい話題」の一つです。
「話題」という事象の正体は、楽しむことです。
楽しむということに、空想(あなたが言うところの妄想)を加えることは、
必ずしも答えに辿り着くための、真理の探究とは一線を画するものと言えます。
では、俺がこのスレを立てた理由ですが、それは根本的に「楽しむため」です。
俺は自身の体験に、それほど重い意味を持たせるつもりはありません。
これは、これまでにも書いてきた通り、
「体験内容をなぜ書くのか」の答えである「楽しいから書く」ことに帰結する考え方です。
面白いですねそれは。
タコさんの意図と確実に違うのはわかりつつですが、
そこから勝手にインスピレーションを受けて妄想したのですが、
以前これはタコさんにも共感いただいた、脳の活動が高度な複雑な反射 反応である、という部分で、
一見それを束ねている、と思しき概念上の自我が、
例えば超高度なアンドロイドが出来れば傍目にはそれが人間と区別がつかないであろうとして、
ある意味それは生身の人間も実は同じで、
自我を有さなくとも、高度な反射反応をできる脳を持っている人間が、
実は現状と全く変わらぬ人であり、
意識や自我は別の意味で存在している、としてみます。
我々が我々だと思っているそれぞれの個体は、
実はあくまで我々それぞれの自我が自分に割り振られたともいうべきそれぞれの個体でしかなく、
今我々と表現しているのは自我でしかなく、
実は切り離されうる存在である、と考えられます。
とすると、自我はいわゆる 生きている のではなく、個々に割り振られた人間の生命活動を観ている 感じている、といえます。
均等な速度で進んでいると通念でされている時間が実在のものでないとすると、
我々自我がその感じている生命活動がなされているタイミングとして、果たして現在進行形が確定しているのかといえばそこには根拠がなく、
もしくはそもそも時間が存在しないのであれば、
タイムラグどころか、別の概念で我々自我はそれを認識しているともいえます。
ここで冒頭のタコさんからのインスピレーションと繋げると、我々の自我が今 として感じている生命活動は、すでに終えられた、すでに存在しないものであり、
あと読み的な、反芻的な認識で、生命活動を終えた時点でそれを自我らしきものが感じている、と感じたということです。
それらしきもの、という段階での思考ですが、大まかにいうと、自我と個体は並走してない、という意味で、タヒ後の世界であるという言葉に結びつきました。
ゲームの中で被造物である俺達がゲームのプログラムを解明しようとしてもわかんないんだから必タヒに考えるのも無駄なんじゃねって気がしてきた
まぁ趣味として楽しむのはご自由にって感じだけどね
多分答えは出ないんじゃないって感じ
タヒんでこの世界の外側に行けばこのシステムもどんなもんかわかるんだろうけどね
まぁ悟りってのもそれと似たようなもんだしわかる人にはわかるのかもしれんけどね
ACIMでも似たようなこと言ってるね
自我の体験してることは太古に起きた記憶の追体験だって
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ACIM
神の永遠の今を破壊するために、#エゴは過去と未来の幻影をつくり、今を覆い隠した。しかし幻影は現実になりえず、すでにこの時空間は終了し、消去されている(#救済)。
過去・現在・未来は同時に起こり、そして同時に終了した。時の外にある心が、この世界という過去の空想の思い出(#脚本)に浸ったとき、脳を通じて過去・現在・未来というリニアな流れとして、映画のように時間という幻影は疑似体験される。
しかし、この世界で体験している"今"は、今、太古の空想を追体験しているだけであり、ふりむけば背後に永遠の今が待っていることになる。
「自分が自分の神となるために、世界から神(無条件の#愛)を排除したらどうなるか?」
神の子の#心に一瞬浮かんだ、神の#愛無き世界のシミュレーションは悪夢そのものだったが、神はこれを現実とせず、瞬時に消去した。
だが「神のいない世界」(無条件の#愛がフェイクとなり、恐怖が存在する世界)という仮定の結果が、余りにもショッキングな内容だったために、神の子の#心は、恐怖の余り#罪の意識にとらわれ、悪夢にうなされて現実に還ってこれない。
悪夢の中で神の子の#心は、無数の人格に分離したエゴとなっており、それが肉体を持つ人類である。
この世界は太古に終わった空想の思い出にすぎず、我々は時の終わりから、映画を見るがごとく過去の空想を追体験している。#肉体は、既に終わった世界と、神から分離した仮想人格を現実と思い込むためのデバイスである。
右脳と左脳の違い、左脳の働きが止まったときの体験、
非常に面白く読みました
左脳がスキャナの読み取り点と仮定したなら、
右脳が左脳をコントロールするようになってゆけば良いのか?等々、
いろいろ考えましたよ
俺はこの先が知りたいんで
なんだか悲しくなりました。
そうだと解っていても楽しいからやってるのでしょうから、頑張って沈んでいってください
人間、過去の自分に起こった強烈な事件に対しては、
なにかしらの踏ん切りがつけられるまでは引きずられるものだ。
吐き出すことで、気持ちに整理をつけようとしている相手に、
その行為は愚かだから、吐き出すな。
飲み込め。
というのは、卑劣だと思うな。
それで同情を引いて、他人の関心を買って、
ちやほやされようとかしているのならともかく。
>>210
既に多様性の海に関しては、現在は解決しています。
その海に沈みつつあった頃もありましたが、今は多様性の海の中に俺はありません。
しかし、あなたの考え方は尊重します。
>>211
フォローをありがとうございます。
俺はどちらかと言うと、自身の体験が面白いと感じるため、
それを共有している、という考え方が正しいのかも知れません。
もちろん、同情して欲しいなどの考え方はありませんが、
意見の交換はしたいと考えています。
時間できたらまた書いてくれなー
世代ならこの掲示板見てる人は大体読んでるだろうけど、
久々見たらやっぱ要所要所エッセンス的に面白い事描いてるなぁと思うす。
多様性の海とは、一言で表すなら「迷っている状態」です。
この時、様々な考え方が自分の中で生まれては消え、心の中の方位磁石は定まりません。
けれども、現在はその方位磁石は方向性を定め、かつて考えていた様々な事柄は明白になっています。
多様性の海とは、沈むべき場所ではなく、そこを越えるためにあるものです。
その先にあるものとは、決して真実などではなく、それを体験した結果に手に入れる「考え方」です。
この海を越えた時、俺の精神状態を一つの部屋として例えるなら、
正常な精神状態としての空間の片隅に感じていた、病的な空間が小さくなり、遠くなったことを感じました。
物事を理解するツールとして多様性の海とはあるものなのではないか。
今はこのように考えています。
>>213
今は、こんなことを書くとエキセントリックなのですが、
自身の体験の中で得た事柄を整理しています。
少し時間がかかってしまっていて、ごめんなさい。
もしかしたら主さんの興味を引くかもしれないです。
(*^_^*)
体験を現在のスピリチャルの解釈で括るのを好まない主さんのようなので、先入観からシャットアウトされなければ、きっと何かの助けになるのではないかと思われます。m(_ _)m
例えばどんどん突き詰めようとしている最小単位についても、
行き着くところまでいくとそこにはまたむしろ
宇宙のようなひろがりが存在し、
大きさは想定 概念でしかなかった、みたいな。
メビウスの輪とか、無限ル~プみたいな。
その条件として、時間的な、大きさのようなものが概念として想定されている必要があるのだろうけど、
最小がまた宇宙のごときひろがりを持っているとすれば、
その時間的なものもかなり不確かで、
前後が確定してなくてもおかしくはない、と。
火の鳥の一部分もしくはメインテーマから着想してというか妄想してみました。
私達が私達である時点で、
自分がヒト 一個人だと枠付けし続ける時点で、
その外には出た発想はできないんであって、
自分達をヒトとした前提で物事を考える時点で永遠に辿りつけない答えがあって、
例えば悟りと言われる思考を身につけた人間が
いわゆる廃人のような側見であるとされることがあるように、
その考えを持てた時点でやはりいわゆるヒトらしいヒトではいられなくなるのであろうとも推測されます。
その前の時点で保っていたいヒトらしさやヒトとしての人生を保ちつつの悟りもないのかも知れないと思ったりします。
好奇心発とはいえ、それはイカロスのように、
目的を達成するために身を滅ぼしかねない危険性をはらまざるをえず、
あくまでこちらからの意見だとしても、オカルトとか、
UFO好きくらいに留めていた方が、きっと、良いと思う。
頭脳明晰な方ほど、わかってしまう、行けてしまうからこそ、
危険な面はあると思います。
進むにしても、せめてどうか危険を感じつつ進んでほしいです。
防衛機制が働いてくれるだろうから。
私達は私達から離れすぎてはやはりよろしくないと思います。
それが何かを知ろうとするとともに、それを知ろうとする自分がどうなろうとしているのかも常に意識すべきだと思います。
恐れは生きるために必要です。
やはり絶対に身体ともにタヒに向かいかねないベクトルは恐れるべきだと思います。
それは知りませんでした。(*_*)
でもここは主さんがご自身の精神障害の相談のために立てられた板ではないので、わりあい自由なコメントが許されていると思いましたが。
精神医学に、書かれたようなことがあったとして、222さんは主さんのこの板をそういう類いのものだとお考えなのですか?(・・?)
ほとんどがそうだ、と言われるということは、222さんは全体を見渡せる一段上の次元にいることになりますが。。
きょう一気に読ませていただきました。
大変興味深かったです。
私は何年か前に、葉っぱをじっとみているとき、
全ての生き物が円状につながっていて、それがウネウネ動いているようすが頭にうかんできたことがあります。
思うに、大元の意識と個別の意識があり、個別の意識が大元のどの部分にフォーカスを当てているかによって、見えている、生きている世界は変わるのではないかと。
思いました。それ以来、自分の感覚ですが、人と話しているとき、この人は、この辺の位置から話してるんだな。と思うようになり、大元に近いところからの会話がしたいと思っていました。
スピリチュアルの探求は無駄で、リアルを大切にすることの方が、大切だと今は思っています。
1氏、また来年もよろしくな
皆さん良いお年を
だけど自分の感覚は世間ウケしないことも客観的に見られるようになるから人との会話は下手くそなままという俺
>>217
ご教示ありがとうございます。
俺は以前にも書きましたが、このスレで自身の体験を書くのみです。
様々な意見があって良いと考えますし、道は一つではないと思いますが、
そこにある事実から目を背けると、本質は見えないのかも知れないとも考えており、
同時にこのスレでは「本質」や「真実」を見ることを目的とはしていないので、
自身の体験を書くというスタンスに変わりはありません。
>>218
俺の体験において、質量や大きさは虚像なのかも知れないと感じたことは事実ですが、
例えば箱庭の内側に住む人と、箱庭を外側から眺める人とでは考え方が異なるように、
この世界に存在する限り、俺たちは「この世界というステージ」のルールに従う必要があると考えています。
個が存在し、その個という状態である俺たちは、そのルールの内側にあります。
例えるなら、俺たちは天の川銀河の中に暮らしていますが、そこから銀河の姿を調べるためには、数多くの情報が必要です。
箱庭の中の情報をすべて得て、すべてを解き明かした時に、ここが箱庭であることを知り、
その時に、ステージは次のステップへと進むのかも知れません。
ちなみに俺は頭脳明晰ではないので、ご心配に及びません。
>>226
スピリチュアルについては、俺も肯定しづらいスタンスですが、
精神的な活動を眺める上で、スピリチュアルという分野は有用かも知れません。
大元に近い存在と出会ったことは俺はありませんが、
俺たちが暮らす世界が境界面であるという考え方は、自身の体験と非常に良くマッチしていると感じています。
>>227
本年もよろしくお願いいたします。
>>230
それは同意しますが、精神疾患に意図的になろうとは思わないでくださいね。
複数の脳機能障害が集合した症候群なのではないか、という説もありますが、
罹患者として独自に研究した限りでは、これは脳機能の病気で間違いなく、
遺伝的要素と環境的要素に加え、発症のトリガーが存在していると考えています。
この病気において、陽性症状が強く出ている時期、確かに体の向きを変えることで、
幻視や妄想の雰囲気や感じ方の強弱が異なることは事実です。
しかし、「体の向きが変わった」ということすら、脳が正しく認識できていないとも言えるもので、
これを回復するには、薬を飲み続け、病識を持ち、よく理解できる状態となる必要があると考えています。
ともあれ、統合失調症が単一の疾患であろうと、症候群であろうと、治療法がありますから、
インターネット上の情報などに惑わされず、治療を続けることが重要です。
治療を続け、良く回復すれば社会生活も正常に送れるようになりますし、
もちろん、車の運転も、医師の診断書を添えて申請し受理されれば、面接が必要となりますが、
免許更新はもちろん可能です。
(この辺りは、都道府県庁、役所、警察署、運転免許センターにも十分に確認しました。第三者に迷惑をかけることが一番良くないことです)
精神疾患だから一生治らないのではなく、再発させないことが重要です。
このスレの趣旨と異なりますが、統合失調症とは「治る」病気と言うよりも、「治す努力を継続する」病気なのかも知れません。
このスレの趣旨と異なりますが、一部に懸念される書き込みがありましたので、
書かせていただきました。
今はノイズとかいうキチガイを追い込んでやりたいがどうして糖質ってクズが多いんだろうな
明けましておめでとうございます。m(_ _)m
本年もどうぞよろしくお願い致します。^ - ^
>216、217のレスの趣旨ですが、
1さんの助けになるのでは? と思いましたのは、
ご紹介した3つの体験が1さんの体験とどんなふうに似ているかという部分を示して1さんだけでないという安心を提供出来たら、
という意味ではなくて、
それらのケースにあたったそれぞれの人物が
どんなふうに体験を自分に落とし込んだのかというその部分が、
1さんが1さんの体験の総括をするときのヒントになるかしらと思ってのことでした。
一人は信仰者で、一人は求道者で、一人はある日いきなりチャネリングを受け取ることになってしまった人です。
どんな体験があっても現在(いま)を生きていかなくてはならないとき、どういうふうに戻るか、
そしてこれからを充実して生きる意志、っていうのがとても大事だとおもったので、
ちょっとカキコしてみたのでした。f^_^;
出来ることなら、1さんが
ご自身の体験を「じつに面白い、発展性のある、思考する価値が充分にある体験だった」と結論されたい気持ち。
それはわたしの勝手な想いですが、
このスレッドを読みに来る好意的な人たちも、
1さんの明晰な言葉を聞きたく思って来るのだとおもいます。
いつもありがとう。